釉裏の華 広瀬典丈・広瀬さちよ作品集4




『色磁器 釉裏の華 広瀬典丈・広瀬さちよ作品集』page4
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広瀬典丈・広瀬さちよ作品集 釉裏の華 ≫page1 ≫page2 ≫page3 展示会の記録
Contents
page4|▼作品解説|▼紬裏五彩と絵付け|▼かたちを作る者として|
page1|釉裏の華|水無方藍窯インフォ|陶器と磁器|染付・釉裏彩|釉裏紅・釉裏五彩 |下絵|上絵|
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藤岡了一|洋絵の具と和絵の具|
page2|青磁|金彩・銀彩|流水文|イズニーク模様|明治輸出工芸図案|掛分けと片身替わり|
|ダミと金彩による片身替わり|大野雑草子|ダミの手法と葉脈文様|福田和也|山本徳治|
page3|野草・野菜の絵付け|高取友仙窟|五百住乙人|田所茂晃|鍋島意匠|小紋・芙蓉手|吹墨|布浸し染め|
|安久津和巳|水の意匠|児島二二男|
page5|二人展の記録|→陶磁器用語集(terms)|  
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▼紬裏五彩と絵付け    ▼かたちを作る者として

作品解説

広瀬典丈広瀬さちよ

この作品集の写真の多くは一九八〇年から現在までの広瀬典丈・広瀬さちよ二人展の案内状タイトルに使ったものです。
過去を振り返るのはまだ早いかも知れませんが、二人展というかたちで色絵磁器を中心に作品発表を始めてからちょうど二〇年、二人展の回数も百回を超えました。
今までの展示会をまとめれば、やってきたことの軌跡が現れます。実現されたものとやろうと思って出来なかったこと、その時だからこそ出来得た仕事、これから目指そうとする方向性など、それなりに開けたのが何といっても収穫でした。
以下年代順に説明を加えます。
写真3は初めて「広瀬典丈・さちよ二人展」と銘打った展示会案内状のタイトル作品です。この頃は中国陶磁、中でも明の成化時代染付豆彩釉裏彩に置き換えることに夢中でした。
釉裏彩の優しく澄んだ色合いと豆彩の持っている気品がとても調和しているように思いました。 (写真34写真7の汲出碗、耳付扁瓶、小皿、写真10など)
青磁も八六年頃まで少しずつ作っていました。(写真11、12
中国陶磁に魅せられる一方で大きなオブジェや陶箱、変形大鉢のようなものも作り、流し模様や流水文波文葉脈文など、自由な作業もおもしろく、変形鉢やタタラを組み合わせたりしたものに、水のイメージで彩色を加えるようなことも平行して行っています。(写真1267の高足碗、鉢、写真81314
写真9は同じ頃、タタラを合わせて作った中国、元代写しの扁瓶です。繊細な豆彩と違って元染付は大胆で力強く、当時の私たちには二つの指向を結び合わせるものに写りました。
写真5の右)は明初染付の写しですが、同じ線上のものです。
中国元代の魅力は東西交流にあり、元の意匠からつながるペルシャやトルコの意匠から、八四年頃、形は扁瓶、模様はイズニークといったものを作り始めました。(写真5左、15
水の模様からは日本の意匠、淋派織部、骨描きしない彩色法や、片身替わり釉の掛け分けなどが見えてきました。織部とミロの類似からミロら抽象画の模倣アールヌーボーアールデコの形や意匠の摂取。
写真171819葉脈文ダミの変形鉢もアールヌーボーの示唆です。
写真21)、明治輸出工芸図案の発見などもありました。(写真16)九〇年からは野菜のモチーフを使って小紋片身替わりにしたり、宮脇綾子のアプリケの意匠も意識するようになりました。実はご自宅が名古屋で、八八年にお会いしてお話をお聞きしてからすっかりファンになってしまったのです。吹墨も頻繁に使い始めたのはこの頃です。
鍋島などの影響のほか、セザンヌ、マチスなどの静物画を見ました。(写真202226273335の右)布浸し染めは九八年からです。(写真3335左、36左の陶箱)
私たちが使ったほとんどの意匠やモチーフは継続的に工夫を加えながら続けています。(写真2223242528293031323536)そのあいだにはいろいろな技法の展開があり、洗練度も少しは上がりましたが、その逆にストレートで単純な力強さは失われました。
人にはある時期その時にしかできないことがあるようです。
私たちも現在の時間を大切にしながら、新しい仕事を考えていきたいと思っています。

紬裏五彩(ゆうりごさい)と絵付け
《風のグラフィティ・陶芸家広瀬さちよ
さんに聞く》より
聞き手・村松文代(IBC岩手放送ラジオ、1986年)
Contents |(1)釉裏五彩と絵付け|
≫(2)陶磁器の世界に入ったいきさつ
| ≫(3)作品のこと,これからの目標|

村松 広瀬さちよさんは、ご主人がろくろ、さちよさんが絵つけという、お二人で陶磁器を作っていらっしやるんですが、作品の特徴はどんなところですか?
広瀬 まず、うちの特徴が紬裏五彩という、高温で焼く色絵の磁器です。「紬裏」というのは、中国で下絵の技術を言います。その技法の中でも、染付と紬裏紅さび色というのは、中国陶磁でずっとやられていたんですが、わたし達はそれに緑と黄色を加えて五色を使った絵付けをしています。
村松 作品を拝見させていただきますと、色具合ですとか模様ですとか、とても繊細なんですけれども、絵付けについてはいかがですか?
広瀬 今は日本の絵画、特に琳派に関心を持ってやっています。少し前までは中国陶磁に興味があって、染付中心の絵付けでした。それは骨描きといって、まず細い線で描いて、その中に色をさすというような絵付けですね。でも今は器面に部分的に釉薬をかけるとか、染付の吹き墨をするとか、そういうかたちで、面の一部を覆うような処理の仕方に移ってきました。
なぜそうなったかというと、日本の絵画の空間処理とか、着物の絵の構成が、おもしろく思えたからです。たとえば、霞がたなびいていると、その霞によって仕切られて、ぜんぜん違う絵が同じ画面に描かれる、あるいは、片身替わりの技法で、梅の花が描いてあって、枝の動きによって、あっと驚く画面分割をしています。そういう画面の動きが、わたしのやっている焼物の器にいかせないかと思っているからです。
日本的な表現方法について思うのですが、細かく何か説明するのじやなくて、たとえば、水仙の花一つとっても、抽象的、図案的なところでそのものを見せていく、そういうところがおもしろいですね。
村松 らしさというようなものですか?
広瀬 そうです。顔なんかものつぺりしてたってかまわない。そのものを醸しだす雰囲気、説明されてなくてもそれを解らせるようなもの、その辺じやないでしようか。
日本人は昔から、画面の中であまり息苦しく描き込んでいないもの、見る人自身によって感じさせるもの、中に入っていく余地があるもの、それが好きなんでしょうね。(続き→)

かたちを作る者として

広瀬典丈

日本の伝統工芸は、与えられた場所で工夫と手練を磨く優れた職人集団によって守られてきました。江戸時代の藩の特産品も明治の輸出工芸品も、持ち札をうまく生かしながらその時代の嗜好の流れを捉え客を引きつける努力で成し遂げられたものです。近代の「芸術家」という新しい作り手達は職人集団の位階を信じず、分業制はすたれ、作品と呼ばれる芸術家の分身が今も伝統技術を駆逐しています。
現代は「自己主張」や「個性」という芸術家=近代自我のメッキもはがし始めています。しかし、私のような都市民の子孫には、階級的な職分よりはそれを否定する民主主義の方が好ましくて、失われていく技術と優れた製品に対しては遠くから尊敬するばかりで、決してそのよい後継者にはなれませんでした。
それでも私たちは二人だけの手分けで小さな作業場での手仕事を続け、展示会という形式にこだわってきました。伝統システムの中で、分業のもたらす力と、客が行き来する「市場」に対する信頼を継承したからです。そこでは個人という神話がいりません。二人の共同作業がそれぞれの仕事を積算します。プラスアルファも掛け算も可能です。展示会という市場は作ったものを否応なく商品化します。売れなければ次の手、とにかく自分という売り手と客との直接の対話が、そこでも別の共同作業を生み出していきます。展示会という形式の素晴らしさです。
音のつながりが旋律となり間がリズムを刻むとき、なぜそれが嬉しかったり悲しかったりするのか、そのわけは説明できるものではありません。たぶん人間以前の動物的な自然であり個体も越えたものでしょう。ものの持つ形が快いとか鈍いとかいうのも同じです。陶磁器は、見る、手に取る、口をつける、五感を通して味わうものであり、「道具」は何かのための手段ではなく人々の生そのものに厚みと手応えを与えます。色や形、感触などの気持ちよさには多くの人が共感し共鳴するでしょう。経験された知恵の積み重ねが個々人を越えて形を招き、編み込まれていく結節点でものは生まれます。作り手にとっては、たくさんの支流を持つ大きな流れの中で、方向性を決断する場面も出てきます。それほど独創的とは思いませんが、個々人を越えた支脈の一つにつながり、先行きを手探りする仕事が持てることは嬉しいことです。私が与えたかたちに、鮮やかに描かれた絵が発色して窯から出てきたときには、至福を得ることも時にはあるのです。
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