勅使河原蒼風2 草月流と「近代芸術」(広瀬典丈)



目眩めく生命の祭-勅使河原蒼風の世界2 →3 →4 →5
Paper of Ikebana (Michtake Hirose ) 1← 
(広瀬典丈)
エディット・パルク(2002年2月20日発行)
 ウ617-0822 京都府長岡京市八条丘2-4-14-506
 TEL075-955-8502
○定価 1,600円+税 ご注文は、書店、出版社、私たちに直接でも結構です。(ISBN4-901188-01-1)
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(2)草月流と「近代芸術」

Contents_まえがき (1)勅使河原蒼風の作品イメージ
(2)草月流と「近代芸術」
1草月流とバウハウス 2「近代芸術」という制度 3父権社会の叙述
4心身二元論の系譜 5二つの他我論 6自然と人との関わり、自然観
(3)いけばなの成立と近代いけばな
(4)勅使河原蒼風のいけばな (5)勅使河原蒼風の彼方 あとがき

1草月流とバウハウス

近代芸術は主体という観念と切り放すことができない。芸術作品とは、何よりも主体=個人のイデアが受肉されたものである。しかし、近代芸術が成立する以前の製作物は、工房の共同製作がほとんどであった。人々は製作されるものに対するイメージを共有し、暗黙の了解を重ね合わせながら、個人ではできないような大きな仕事を、共同作業として達成していた。中村雄二郎は、「かたち」=「リズム」論で、さまざまな相互行為や相互作用について、ものごとの知覚や認知、理解・了解・直観の説明に「リズムの共振(形態共鳴)」という概念を立てている。(注1)全体のかもす雰囲気を個々の身体が感受し、反響し合うと、相互の「引き込み」、共振が生まれ、全体としてのかたちが形成される。二つの布の重ねによって、木目模様のモアレが生まれるイメージを考えてもいいかも知れない。中村の論は、自然と人、作家と鑑賞者という枠組みを取り払い、集団的な表現の協働性についても、新しい視点を提供する。近代芸術が見落とした共同作業の持つ力に対して、これは大変重要な指摘であると思われるが、個か全体かという問い方の有効性も含めた、これらの問題については、あらためて、触れることにしたい。
勅使河原蒼風は、草月流といういけばな団体を母体にしながら、草月工房による共同作業というかたちで、その創作活動を展開した。彼が成しとげた作品群が独特であっただけではない。その方法も注目に値する。草月流は、その日常活動の中で、いけばなを指導し、研究会、講習会、花展、ウィンドウ・ディスプレイ、舞台装飾などを通して、どんどん現代芸術の新しい流れや、その方法を紹介し、応用していった。オブジェもモビールもコラージュも、いち早く取り入れ、それを街角に展開し普及させたのは、他ならぬ草月流である。草月流は、勅使河原蒼風が指導する、創作の学校であるとともに、彼やその生徒たちの創作活動の、きわめて実践的な舞台だった。第二次大戦後の一定期間、日本の都市空間における「現代芸術」の前線に、勅使河原蒼風と共に、草月人の姿があったのである。
これと同じようなものとして、グロピウスらによって指導された造形学校、バウハウスを思い描くことができる。グロピウスも共同作業の持つ力を信じ、近代芸術を批判する。彼の学校は、建築を中心にした芸術活動の新しい総合、親方と徒弟制によるギルドの再構築をめざした。アメリカに亡命したミースやコルビジュエによる、建築、デザイン教育など、バウハウスはアメリカの美術に大きな影響を与えたが、勅使河原蒼風と草月流が、第二次大戦後に行った活動は、まさにこのバウハウスにたとえられる。蒼風の自負もそのようなものであった。

……石元泰博夫人が、バウハウスで今彫刻の勉強をしているんですよ。
……ふだん草月で勉強させていただいたのとどこが違うのかと思ったら、ちっとも違わないと言うんです。
……草月の秋の流展を飾るような大きいものはだれも作ってない。
……
……タピエがこの間草月の夏季特別講習会に来て、これは不思議な教育方法である。おそらくああいうグループを作って勉強しているところはないに違いない。自分が知らない世界をたくさん見て、今そのショックを相当ひどく受けた。何とかまとまった感想を言わなければいけないと言ってました……。(蒼風談話『草月よもやま座談会』『いけばな草月』26号)(注2)

草月流は、勅使河原蒼風という、強烈な個性によって描き出されていくイメージを共有しようとする、いわば蒼風ファンによって出発した。蒼風は、草月流という枠を越える、彼独自の世界を発表し続けながら、その一方で、彼の作品モチーフとその様式を、草月という団体に賦与し、共同作業を成し遂げていくという、二つを同時に行う力を持っていたのだ。彼は、どんなものにしろ、眼前にあるものから何かの力を引きだし、結び合わせ、共振させる方法を知っていた。共働作業のもたらす大きな効果を計算しつつ、まるで「神仏習合」のように、いけばなと西洋近代芸術を重ね合わせ、ネットワーク化し、情報を発信した。研究会や講習会、街角での花展、ウィンドウや舞台の装飾、多くの実践的な活動と新しい試みが奨励される環境の中で、門人たちと発揮した成果、草月が作り出したいけばなのユニークさを、勅使河原蒼風という個人の独創性によってのみ説明すべきではない。楽器それぞれの音色を引き出すことのできる名指揮者という、蒼風のもう一つの顔がそこにある。蒼風と草月の活動は不可分であり、その意味でも、勅使河原蒼風という一人の造形作家と共に、草月流が作り上げた世界、その中心としての勅使河原蒼風が重要なのは言うまでもないことなのである。

2「近代芸術」という制度

草月流は、家元制に支えられた集団的体験と運動形態によって発展し、いけばな界に浸透していったという点をのぞいても、他の造形運動とは異なっていた。

一、束の間に失われてしまう輝きをそのままの瞬間において表現するという、いけばな表現の広がりのうちに達せられたこと、
二、彼岸的な思想を含まず現世主義、商業主義に貰かれていること、

これらのことは、西洋の近代芸術をイメージする人々にとってはやや異質な気がするし、明治以降に移入された概念に従って、「正統」的な芸術活動を担ってきたあり方とも違っている。しかし、現代芸術のパフォーマンス性と瞬間性、アメリカを中心とする現世・商業主義、広告や企業内のデザイン活動などの共同作業やパフォーマンスなど、第二次大戦後の欧米美術の雰囲気と蒼風の活動は、欧米の創作活動の根底に流れる、個人主義というファクターを除けば、以外に共通部分が多い。
西洋に始まった「近代芸術」の概念は、第二次大戦後の欧米の「現代芸術」によって大きく変貌した。アメリカの日本占領と文化流入というただ中で、勅使河原蒼風の創作活動の後半が決定づけられたという偶然は、すでに一家をなし旺盛な創作活動を展開できる五十代の勅使河原蒼風にとって、幸運な出会いだったと言わねばならない。勅使河原蒼風が、草月流の看板と共に、活動を始めたのは一九二六年(大正十五年・昭和元年)である。それは、明治の支配体制によってようやく達成された、「日本美術」という制度を揺さぶる、大正アヴァンギャルド(前衛美術運動)と時を同じくしている。いけばなにとってチャンスと思われたこの変化に、呼応した若いいけばな作家の一人が、勅使河原蒼風であった。戦争への突入によって終息していったこの運動が、支配体制の崩壊と、アメリカによる日本占領という、思いがけず世界に開かれた状況下で蘇り、新らしい展望を与えるように思われたのである。(注3)
ある文化様式は、とりあえずそこに所属する人にとっての安らぎと自由の場所である。人が他者と文化を共有し、それによって自己を意味づけることができるのも、そうした基盤があってのことである。しかし、私達が今生きつつある現実の体験の座は、個々の身体であり、その個体性、単独性を越えることはできない。すでに存在する様式に一般化できず、生の様式に当て嵌めることのできない体験が、私達の孤独を浮かび上がらせ、他者とは決して通じ合えない孤独な「私」を、意識せざるを得ないこともある。そうした「私」という単独性を真正面から受けとめるのが、西洋近代知識人のあり方である。「知識人」は、近代的なシステムが生み出した最も鋭敏な意識であり、「様式」に対立する個人的な体験を基盤として、そこに「リアリティ」を求める。それは自我をその所属文化から解放し、個体を親族から独立させる一方、個々人の意識に超越者の役割を内在性として割り振る。矛盾するようだが、それは近代国民国家を支えるナショナリズムとも表裏の関係にある。
近代以降の世界に築かれてきた「リアリズム」も、それ自体「近代芸術」という「主体を祭る様式」であった。が、それは、神話や物語的世界から、作家そのものの日常世界に、その主題を転換させた。表現されるものの中に、等身大の作家自身と、その眼差しが刻印されることで、作家の身ぶりに同調し、視点を重ね合わせ、観客はその表現世界に引き込まれていく。別の観点からすれば、近代社会は、自意識の「眼差し」をエリートの印として特権化し、作家と視点を共にする観客を、知識人=芸術家を中心にいただく新しいエリートサロンに囲い込んでいった。
「個性」「自己表現」「内面の真実」としてのアブストラクトをも含む、広い意味での「近代リアリズム」、それらは、国民国家の発揚的な気分を反映した、古典主義やロマン主義に対する、異議申し立てとしての、「知識人」による戦略的な表現形式でもある。しかし、古典主義、ロマン主義自体も「伝統」の様式ではなく、フランス革命以降の、「国民国家」を支えた新様式だった。そう考えれば、その批判としての「リアリズム」も、資本主義の台頭による、商品としての「芸術」誕生のイデオロギー、という側面が見えてくる。日本の社会でも、西洋の権威に依って立つ方法で知識人は登場し、古典主義やロマン主義の日本版である、歴史・神話的主題の称揚の後には、反文化としての「リアリズム」や「反美術」=アヴァンギャルドが生まれたのである。
現在の足場からは、明治以降の「日本」を俯瞰して、明治政府や支配的な集団がとった政策によって、近代日本政府が生まれ、「日本美術」も編成されていったというふうに言うことが可能だ。そして、「国民国家」「芸術」、その他、近代以降に西洋で成立した概念の全てが揺らぎ、再考を余儀なくされている事実にも気づいている。
北沢憲昭は『眼の神殿』(美術出版社、一九九六年)で、明治体制が作り上げた、「美術」や「日本美術史」を論じ、「制度としての美術」を以下のように説明する。

「美術という翻訳概念によって在来の絵画や彫刻などの制作技術を統合し、博覧会、博物館、学校などを通じて体系化し、さらに審査によって制作物をそれに適応させることによって公認、遵守、ついには規範が内面化される事態」(注4)

明治の国家体制は曲がりなりにも四民平等をうたい、「国民」を登場させ、地租改正や殖産興業で階級流動が都市中心に始まる。近代国家の都市空間は、「親族的祭」を相対化し不安定にする。同じ一つの「日本」という制度とイデオロギーが急速に流入し、それを支える「日本」「日本人」というナショナリズムも育っていく根拠が生まれた。「日本美術」は、当時近代国家を形成し、古典主義、ロマン主義による国家=「国民」発揚を主要テーマにしていた「西洋美術」を模倣し、その権威に従いつつ対抗して、主題や方法、ジャンル形成をはかっていったものの、新しい名称なのである。当時あった絵画流派、たとえば狩野派、土佐派、丸山派などは、「西洋画」の成立に合わせるようにして、家元制を越えて、単一の「日本」「国民」の「日本画」としてその派閥内に再編され、「西洋画」とともに、日本ナショナリズムの主題を担うことになった。その中で、西洋には無いいけばなは、それゆえ権威を持たず、日本ナショナリズムという焦点を持ち得なかった。いけばなを支える層が、当時の支配階層であった武士よりは、町人たちであり、美術学校や明治のアカデミズムに無縁であったことも、大きな要素だろう。いけばなが家元=親族的な祭りを保持しつつ、地方のより古い文化的基盤にとどまった理由である。
一八八二年(明治十五年)フェノロサは『美術真説』の講演を行った。(注5)北沢憲昭『眼の神殿』はその原理論を以下の五点に要約する。

第一、 「美術」が「美術」であるのは「妙想」(イデア)を有する
第二、 作品は「形状」(フォルム)と「主題」によって構成され、日常や自然から自立するひとつの「世界」を持つ
第三、 諸芸術はイデアをあらわす「形状」によって、音楽、絵画、詩などに分かれる
第四、 創意をもって「新機軸」を打ちだし「新妙想」を発現していかなければ「画術」は「退歩」する
第五、 絵は〈つくる〉ものである

この講演が、当時の日本知識人に与えた影響が大きかったことは、北沢も指摘するところだ。さきほど引用した、『勅使河原蒼風花伝書』でも、『美術真説』、ことさら、第二、第四、第五の主張が、まったく共通した言い回しと、共通の思考の枠組みで語られているのがわかる。西洋画の移植を制度的に果たそうとした潮流に対して、フェノロサが代表したのは、「日本」「美術」を確立して西洋輸出をはかるという、国粋主義の立場だった。であればこそ、いけばなのような西洋にないメディアにとって、彼の『真説』は傾聴し、てこにこそすべき主張であったはずなのである。勅使河原蒼風がフェノロサを読んでいたかは疑問だが、おそらくその説はかなり流布されていたに違いない。
しかし、五点を読めばわかるように、フェノロサの主張は、一のイデア論、二の形式と主題、三の体系化、四の「新機軸」、五の「つくる」(造形)など、デカルト的主客二元論の正系につながるものであった。「外的経験の総体」=「自然」は、イデアを持つ「主体」にとっての材料であり、イデア=アイデアをあらわす「形」が「芸術」なのである。主体とアイデアと新機軸、造形を説明する若きアメリカ人合理主義者の登場は、一面でたいへん単純でわかりやすく、「日本」という風土に「芸術論」を植え付けるのに効果を発揮し、強固な芸術・美術の制度を築き上げるに役立った。一方、彼の意図を越えて、西洋現代芸術の「新機軸」をも輸入する契機ともなった。大正アヴァンギャルドは、フェノロサが産み落とした鬼子と言わねばなるまい。ただし、北沢が指摘するような注意も必要だろう。

一部の尖鋭な意識にとって美術は、拒否すべき桎梏にして、虚妄の制度であったが、大部分の美術家と一般大衆にとって美術は必ずしもそのようなものではなく、むしろこの時期に美術は、デパートや画廊を通じて人々の日常のなかへ広汎に浸透しはじめたのだ。

はたして、大正アヴァンギャルドの中に、「一部の尖鋭な意識」というものがあったのかどうか……。「現代芸術」が祭るのは主体=「近代自我」であり、それを担うのは知識人=芸術家である。「自意識」が問題になり、「芸術家」が「自己」を「表現」するようになった「近代芸術」以後では、「芸術家」の頭を支配して来たのは、自分を「独創的」な「芸術家」として示す手段としての、「芸術」であるようにも見える。アメリカでは、それはもっと率直明快に、「成功者の個人神話」と言い換えられる世界だった。アメリカでは知識人的な建て前は必要とされない。ただ、「芸術家」たちが生み出す商品と、小難しくけばけばしい芸術論議が、成功者のステータスシンボルとして歓迎され、高価なブランド商品として、金持ち達の消費対象になった。そして、世界的に発達したマスメディアが大衆的なデザイナーブランドを、「デザイナー神話」とともに商品化するシステムも完成させたのである。
旧日本国家体制が崩壊した、第二次大戦後の「民主」「日本」も同様である。マスメディアは、国家より世界同時性や民主主義に呼応し、アヴァンギャルドや現代美術が欧米から直接流入する中で、「主体の祭」は戦後芸術運動の主流を形成した。その一方、組織や権威、体制としての「日本美術」は無傷で残り、戦前を清算することが無かった。大学やアカデミズムは旧態依然の状況から出発し、アヴァンギャルドや現代美術も、無害な派閥関係の中で、欧米の権威を傘に輸入した。いけばなも、アメリカ占領軍をはじめとする、世界に対しての「国民」文化として、家元制も含めて国家に回収された。
勅使河原蒼風と草月流が、家元制の体制下で、アヴァンギャルドを積極的に受け入れ、その旗手たらんとしたことは、当時のマスメディアへの迎合であったという側面と、「日本美術」支配体制への反抗という両面を持っていた。大学やアカデミズムから、閉め出されていることに対する在野意識が、根底に流れていたのである。もちろん権威と在野といった二項対立とは別に、いけばなにかぎらず、伝統的・親族的な集団表現の、あいまいな場所にのっとる以上、世界同時代性としての、「現代芸術」に対する理解は、「主体」理解と同様、表層的なものに留まらざるを得ない。そもそも「日本」には「主体」を理解するための基盤が欠けていた。
だが、「近代リアリズム」からアヴァンギャルドに至る、「現代芸術」=「主体の祭」には、すでに述べたような、西洋的世界像全般を含めて疑義がある。

3父権社会の叙述

阿部謹也によれば、「一二一五年のラテラノ公会議で、成人男女すべてが少なくとも年に一回は教会で告解をしなければならないという義務が課せられた」という。(注6)それでなくとも普通の信仰者は、週に一度、教会で自らの犯した罪について告解をしていた。阿部も言うように、これはそうとう異様なことだ。それまで、呪術や世間のしがらみに縛られていた意識が、一人、神の前で個人として責任を問われ、償いを要求されるのである。キリスト教的思惟は、神に忠実であるか、自己の欲望に正直であるかをめぐって分裂し、この構図は個人の「内面」に凝縮されてかたちを結ぶ。西洋にキリスト教が本当に浸透した同じ十二世紀に、イエス像は苦痛の印を持って描かれるようになり、西洋で「個人」が成立したのだと阿部は言っている。さらに阿部は、十五世紀頃からの自画像の流行を、「神と自己を新しい関係で位置づけたもの」と見、しばしば自画像がイエスになぞらえられる、つまり「神のまねび」として描かれることにも注目する。阿部はそこに、西洋における近代的個人の成立を見るのである。
かつて「聖なるかたち」という、十四〜十六世紀ドイツ、いわゆる後期ゴシック時代の木彫・板絵の展示会を見た。私にはその多くが「聖なるかたち」というにそぐわないものに思われた。十字架上のイエスの手に打ち込まれた五寸釘や、苦痛に歪んだ表情、神は醜悪髭面の田舎親父そのものだ。稚拙さが残るとはいえ、下卑た印象さえ与えるリアルな造形がほとんどで、西欧人のリアルさへの希求をあらためて見せられる気がする。敬虔な神への思いが聖像にリアリズムを呼び込むことは、実在するものを通して、その奥に「真実」を見ようとする限りで必然的なのだろう。そこにある信仰は、神をただ祭るのではなく、それに近づき、同じ肉体的な苦悩を味わうことで、神と自己を同位置におけると考えるような思考だ。これはある種の疑い深さでもある。
「創世記」アダムのりんごは、侵すべからざる禁止と、味わうことで、知恵をもたらす誘惑とを併せ持つ、疑惑のりんごである。疑うものは確かめるしかない。疑いの原因は、獣性と神性を併せ持つとされる人間の、自己と共同体との乖離、言葉を変えれば、自分が祝福されているのか、呪われているのかに対する、父なる神=共同体の主催者への疑いにある。「かくあるべし」の律法と、生身の欲望が、ぎりぎりのところで攻めぎ合う。人間の罪は本当か? われわれは神に迎えられるために、懺悔し、許されなければならないのか? 人は欲望を抑圧し、善良さの仮面を被り、その仮面に耐え切れない。「かくあるべし」の信仰を続けようとする限り、残るのは「罪ある俗人」の中での、「道徳的優位者」と、「自己の欲望に正直な者」との、「不道徳」と「偽善」を巡る裁き合いだ。そして、苦行の果てに、神による愛を確認し、破戒を悔い、神の救済を得るという物語が想定されている。神聖な精神と邪悪な肉という、二項対立を前提する西洋は、「原罪と悔い改め」の神話を生み出し、自己意識と家族関係の緊張を強い、精神の救済を天上に求めるという構造を持っていると言えよう。共同体との間に自己同一性を再び見いだしたとき、悔い改めと共に、失われた信仰は戻るが、「真実」の追求は、そんな予定調和を突き崩す危機を常に孕んでいる。 何故なら、「共同性」も「自己同一性」も実は信仰であり、「真実」を追求すればするほど、ものごとの差異があらわになるからである。
「伝統」や「様式」が集団的な思弁に関係しているのに対して、「リアリティ」は近代人が持つ個人的・体験的な実感である。それは、ちょうど、全能の親に対する子のようにして伝統の前に立つ。「始源や存在を問う」のも、君臨するものの根拠を問うことであり、西洋哲学は、権力の正当性の再確認という構造に支えられているともいえるのである。
たとえば、この二項対立そのものを運動として統一しようとするへーゲルのような立場は、父と子の対立と和解という、集団主義的、予定調和的な世界観を代表し、個人主義を集団に取り込むことに成功する、言わば父の思想なのである。その対極には子の思想、つまり、超越的な調和を否定する立場がある。共同性に回収されない絶対的に孤独な自我論である。これには自我の場を否定する立場までが含まれる。
しかし、これらの対極的な立場は、同型的な世界像を前提している。精神と事物は、入れ替え可能な等価概念だからこそ、思弁として便利に使われてきた。それは「無―有」、「イデア―現象」、「形―質料」、「天―地」、「父―母」、「主体―客体」、「理想―現実」等々、いくらでも続く、鏡面を境にした対称図形の連鎖である。その緻密な議論の枠組みを離れないかぎり、細部を変えた神学は際限なく生れ続けるだろう。

4心身二元論の系譜

父権社会の起源を問うことに意味があるというのではないが、父権が、母系社会から男性結社が独立する過程で生まれた教義、「父なるもの」を支配的な思想とした社会であり、漠然とした親権の男女の性差に、特別な意味を賦与した、歴史上の産物であることは確かであろう。子を生まない男が親となるには、母が「肉としての子」を生むのに対して、父はその肉に「精神」を賦与するといった、ロゴス信仰が必要である。男性原理=父権原理は、その根本に「精神性」を置かざるを得ないのだ。新プラトン主義やグノーシス思想に見られるような、聖霊賛美、肉体の否定、肉の造物主たる母への憎悪といった極限の観念論が、西洋社会の根底を流れている。それは、肉体労働や家事労働のような、身体的な活動や身体再生産労働を蔑み、肉体から離れた精神を仮想し、その自由・自立を特権化する貴族主義である。しかし、その精神の自由のために、彼に奉仕し、彼の肉体を甦生・再生産する者がいる。皮肉なことに、父権社会での「自立者」とは、小間使いの世話を受ける者だ。父権社会の父は、一家を支え、家族に食物を与える保護者としての顔を併せ持ち、母を親としての全般的な責任から解放すると同時に、母権を小間使い労働に矮小化した。こうして「女性原理」は、父権原理発生後の父性に対する対立要素となり、「理性」に対する「情動」という負の価値を割り振られる。
プラトン主義は、心身二元論の思考の典型として、天上の超時間的観念を真の存在と見なし、イデアから宇宙論的なプシュケー(造物主)を通して自然の生成を見る立場であり、いわば父権主義の代表的な教義である。プラトン主義には、自然を自我によって造作されるべき受動対象とした、デカルト以降の西洋哲学にも通底する人間観がひそみ、またその究極には、現実の生の豊かさを否定するグノーシス主義がある。プラトンは、知覚される事物の、その多様性の奥に、思考を支える先験的な知「イデア」を置き、天上にイデア界を想定した。プラトンにとって自然が生成するための起動因としての「プシュケー」(魂)、それを支える「善のイデア」という構成が、宇宙を考えるにあたっての不可欠の要素だったのである。(注7)「唯脳論」ならば、それは本末転倒であり、そういう説明こそが、内側に閉じようとする、人の神経系が取る方法なのだと答えるところだろう。
プラトンにはまだあったプシュケー、生成する自然の豊かさに対する賛美も、グノーシスにおいて極限に達するプラトン主義の世界像では、「雑多な存在の忌まわしさは影であり、イデア(精神)こそが真実の姿である」とする、自然=悪しき素材論にまで成り下がる。これは、思考からその身体を切り放したプラトン的世界像の、至るべき必然だったようにも思われる。グノーシス神話はこう説明する。(注8)

天上に神=ロゴスの家があり神の子(精神)=人は神の祝福を受けてそこにいた。一方、地には事物を創造した邪悪な造物主がいた。彼は神に嫉妬し子を誘って大地を見せる。大地の湖面に映った人影に魅了された人は受肉して大地と造物主のものとなる。グノーシスの実践は堕落した肉体を捨てて神=精神の国に帰ることである。(『ヘルメス文書』荒井献+柴田有、朝日出版社)

デカルトは、プラトン同様、哲学者という知的、貴族的な場所に安らう。彼が知を礼賛するのは、身体的自己からそれが自由なためである。信じる者は頑張るから、そんな理性が本当に可能か? と訊ねても仕方がない。だが、プラトン以来の哲学が、伝統的に感覚や情念、また芸術をうまく扱えないことは、それがもともと、生産や技芸のような身体活動的実践による生よりも、生の意味を問う知的活動を、より高級なものとする貴族主義を前提しているからである。何よりもそのことが、プラトンやデカルトのような、典型的哲学者が非難される理由でもある。アメリカ映画『ゴッドファーザー』ではコルレオーネが、「自からの金を恥じるのは金持ちの貧乏人に対するポーズで、自慢できるものは自慢すべきだ」と言っている。当否はともかく、実践家を持ちあげる哲学者も、金を恥じる金持ちが金を捨てないように、その知を捨てるわけではない。彼らはアリバイが欲しいだけである。

私たちが幼時から持ち続ける判断は、先入観によって歪められた不確かなものなのではないか? それに対して、確かにそれはあると言える確実な基盤を見つけ出すにはどのようにすればよいのか?

これがデカルトの基本的な問いである。(注9)
生命が、受ける刺激を快不快の二項に分別しながら、世界を構造化していくことを、デカルトは精神が身体に融合している状態と考える。その状態の精神は、身体感覚に引っ張られて判明な知覚を得られず、偏見の虜となる。身体に縛られた認識は自己を絶対の中心とし、「自分の都合」を離れることができない。だが、人は眼前のあらゆるものを疑うことを通じて先入観をカッコに入れ、感覚=身体の呪縛を解くことができる。そこに現れるのがコギト、つまり精神の自由であると言う。現代の身体論は、その身体によって人間の知覚や意識がもたらされ、身体的実践で与えられるものの構造化こそ、私たちにとっての世界であることを教える。身を離れた精神は意識としてのみ存在し、存在基盤としての「我」に居場所を与えない。デカルトは精神を、ものとは別の秩序とすることで、二つを分離してしまうが、体感的知覚を切り放して、精神の独我論を説く余地は無いのである。だが、デカルトがめざしたのは、方法的な懐疑によって自己中心主義を離れ、共通概念へ移行することであった。デカルトはその方法的懐疑を理性と呼んでいる。
デカルトの評判の悪さの一端は、身体や感覚、情念といったものを評価する枠がなく、芸術を「不当にも」過小評価するところにある。だがその批判者たちは、感覚や情念、また芸術的営為を正当に判断できたのだろうか。愛知者たる哲学者であるかぎり理性を越えられない。そのために「反」哲学者の多くは芸術家を利用し、彼らを感覚や情念の守護者に仕立てあげようとする。芸術家が、より感覚や情念に密着し、その内側からそれらを編み上げる存在と映るかぎり、デカルトが言及できなかった部分、つまり理性の補完的な役割を与える存在としてもてはやされる。
しかし、デカルトが絶対化しようとする理性も、実は高度な生命活動としての人間知の一部分に過ぎない。また、実践家も無知なのではなく、独自のやり方で出来事を対象化し、構造化する。だがそれは懐疑による偏見の克服という方法とは違って、自分の身体を使った知覚や情念によって、現わされる出来事を感受し、記述することにこそ向けられる。たとえ哲学的理性とは遠くても、非理性=カオスなどとは言えない、哲学とは別の理性たりうる。それが身体感覚に密着しているかぎり、個体を越えられないように見えるかも知れない。しかし、知覚を通じてものを捉えようとする試みは、身体を介して他者と共感し連帯を作りだしていこうとする、自己の身体を非中心化する試みの一つなのである。
ともあれ、デカルトの哲学のモチーフが、生物的自己中心原理の克服とするならば、皮肉なことだが、方法的懐疑の末に懐疑の主体たる自我と、それを支える神を見いだすことで、生物的な自己中心主義は逆に延命する。「精神」も生身の身体同様、自分の存在基盤を否定するような問いを、そもそも立てることはできない。デカルトの意思に反して、「デカルト主義」は、知覚の前線である豊穣な自然から離れ、知覚を精神の統括下に置こうとする。ものごとの世界が痩せさらばえて、人間精神という実体の怪しい、働きだけが肥大化した新しい中心が、「主体」と呼ばれるものの正体なのだ。通俗的な人間中心主義や実存主義など、ロマンチックな主人公的世界観への道を開き、近代以降の、芸術家=自分を主人公とする、まったく同一パターンの「自我のドラマ」という、膨大な作品群を生産させることになった、新しい神話である。

5二つの他我論

最近のさまざまな立場からの「自我論」では、他者との関係を契機として、「私」の成立を説く主張が多い。滝浦静雄の『他我論』(注10)、浜田寿美男の『「私」とは何か』(注11)の共通の論点は、「自我論」には「私」を支える身体と「聞き手」が不可欠であり、自他の互換性が、「私」という場所を創り出すのだという指摘である。
浜田は、人が、他者との視点の共有を通して自他の立場を置換し、やがて「内なる他者」として「私」が成立する基盤を、身体を持った言葉の対話性を軸として説明する。浜田にとっての「私」は、「そのもともとの個別性と並んで、他者との共同性・関係性を深く絡みつかせ」た存在なのである。最近の脳に対する知見では、人の脳の側頭野に、他者と共感し同調するニューロンが先験的に働く場と機構が発見されている。赤ん坊は鏡を認識できる前に、相手につられて笑い、他者の身体動作に同調する。自我とは、他者と同じものとしてある自分の発見であり、他者の存在を前提せずには決して存在できない。
デカルト以来の西洋哲学が持っている「自我の極」としての「私」は、「思う」を可能にする条件として絶対的に見えるが、自己言及のない世界にとどまる意識を、「自我」と呼ぶことが不可能なことを、滝浦も主張している。「自己言及」には、自己の身体と同じ身体を持つ相手が絶対の必要条件で、西洋哲学は意識を考えるに当たって、この相手=他我の存在をまったく考察の対象として欠いている。「精神」が単独で存在できる「実体」と考えられる限り、人が立ち上げていく世界の意味を知ることも、自己中心原理を克服することも不可能だろう。
視点の共有というこの知覚の特質は、人を生得的に誘う生きた場の体験であって、人はそこでは偶然のシミや汚れをも奥行きと意味を宿すものとして立ち上げようとする。しかし、人の成長過程で、無意味な斑の中から地と図柄を区別し、パースペクティブを作り上げるのは、母や父という導き手の眼差しや感じ方、操作をなぞるという共同作業を通してなのだ、と浜田は言う。おそらく、言葉の立ち上げにも、同じような脳の機構が働いているはずである。いけばなであろうと絵画、彫刻であろうと、作られたものを見る人は、作者とパースペクティブを重ね、自身もその制作を追体験しつつ眺める。ものの製作が個人によるか集団によるかに関わらず、作られたものは、その受け手との共同作業によって初めて意味を持つのである。そして「私」とは相手との関係の延長上に、「内なる他者」として成り立つものなのだ。
西洋近代の支配的思想は「私」を誤解し、それ故に相手を理解しない撞着の中で、父子の葛藤劇を主要なテーマにしてきた。しかし、それが全てではない。「近代リアリズム」からアヴァンギャルドに至る「現代芸術」=「主体の祭」の中でも、個々の「芸術家」は創作活動を通して鑑賞者との共同作業を意識し、また、共同作業の重要性を認識していた。たとえば、コローからピサロ、モネに進む油彩における点描法の確立も、見る側が奥行きを自ら立ち上げていくことをじゅうぶん知った上で、画家はキャンバスに絵の具をただ置いていくことが可能になったのである。いわば表向きの自立した「自我」の後ろに、相手は隠されていたに過ぎない。どんな世界であろうと、人は相手に向かって表現行為を行う。そこに生まれる豊富な意味は、常に相手との相互作用の中から、協同作業として浮かび上がるものなのである。
草月流が当時、「現代芸術」の新しい流れを紹介していたと言っても、「現代芸術」に対する理解が「主体」理解と同様、表層的なものに留まらざるを得なかったのは当然のことだ。「日本」には、西洋的な主体「私」を理解する基盤が無く、かわりに、世阿弥に代表されるような、鑑賞者を徹底的に意識した表現行為と、それを可能にするための共同作業があった。人々の気持ちを捉えるための、戦略の一端として、「現代芸術」は取り入れられたに過ぎない。

6自然と人との関わり、自然観

西洋社会での、自然に対するイメージの、主流の考え方を要約しておこう。
それは、「自然」という全体像を、人間にとっての客体的な対象とし、能動的に働きかけていく科学のような方法を可能にした。対象化される自然は、知覚する身体を介して取り込まれ、人間化されていく。その前線の舞台を統括指揮する人間は、かつては自然や人を越える秩序(イデア)を有する神の執行者と考えられた。舞台の外側の、未だ人の手がふれることを拒む広大な野生の自然も、いつかは人間の力によって、神の秩序に取り込まれるべく準備された存在なのだ。かくて人間の能動性を支える自我は、世界や宇宙に対して重い責任を負わされるものでもある。
こうした自然観・人間観が人と自然との関わりにおいてどれほど有効に働き、自然に対する人々の知見を深めたかについては論を待たない。西洋におけるこの世界像に対する反論や異論、変更の要求も、枠組みを決定的に変更するようなものではなく、この世界観に対置させるような決定的な知のあり方が力を得たこともない。ロマン派や自然主義、シュールレアリズムなどによる反論は、自我よりも自然の奥に神(イデア)を見、自我の内側に自然を発見する。しかし、主役が入れ替わっても、それが精神を起点とする自然論・イデア論であるかぎり、プラトニズムの大枠にからめ取られ、神の理性(イデア)と野蛮の対立という、二項対立の構図にいっこう変わりはないのである。現在、人間による自然の加工という能動性が、地球に与えた負荷が明らかになると、無限に可能と思われた自我(イデア)の拡張を制限し、許容量を越える開発を抑制することが、西洋的世界観の中でも、自然や宇宙に対して、自我の取るべき責任となりつつある。さらに、自我(秩序)と自然(無秩序)の二項対立のローカル性を知れば、それらに対する新しい遠近法を得ることが、西洋世界での今日的な課題とされてきているのは周知のことである。
では、「日本語」における自然観とはどのようなものだったのか。あるいは、そう呼ばれるべきものはあったのだろうか。
前章の5で、私は、「『日本語』にあった〈自然〉という言葉は、〈おのずから〉や〈みずから〉を意味し、自然の生成する自発的な力と、人の自発性を矛盾なく名指すことができた」、と言った。(注12)これは、外的な自然と、自分の心情のあり方としての自然を、区別できなかったことを物語っている。同時に、西洋人が対象化した、「自然」を名指す言葉の翻訳として、「自然」が確定したのは明治以後であるが、人為としての制度が、自然から区別された江戸時代には、潜在的にしろ自然は客体化されていたと思われる。明治期の知識人は、輸入された自我論をてこに、それを顕わにし、視点を与えたのである。ただ、「日本語」では、自然がその全体性として対象化されることは少なかったし、人為を自然と対立させる思考方法にも馴染みがない。むしろ、人々は「自然」の中に存在し、人為は自然に範を取り、それを自然に紛らす努力が重要とされた。人為が顕わであることは「賢しら」であり、あるがままの「自然」は望ましきものを象徴する。肯定的な自然観の中では、自然は人々にさまざまな霊感と多義的な意味を宿し、人の感情を揺さぶる優しい装置となる。
しかし、注意が必要である。人々が人為としての秩序(祭式)を作り上げた世界では、自然と人々の共同体は実際には分離している。ここで呼び出された「自然」は、人々の世界の外の自然ではなく、人々の生活の中に囲い込まれた意識内の自然、母胎のような居心地のいい空間に留まろうとする退嬰的な意識と、それを支える庭園や箱庭のように巧妙に虚構された自然の表徴なのである。自然を感受する舞台が失われてしまうわけではないが、自然の都合のいい徴だけを受け取る意識の閉域が、「自然」と呼ばれる。だからこそそれは、憧れの対象ともなりえたし、叙景と叙情が出合う場所として美化された。人の意識を自然性として叙述できると考えるのも同じ心情である。人の意識の上に立ちあげられた「自然」が、外の自然=「おのずから成る」と自身の内=「みずから」を同時に指し示すことができるのも、当然のことなのである。観念的・胎内的な心中世界と「自然」の呼応は、禅の境地や浄土、あるいは「主客の超越」といった宇宙論に結びつく契機ともなる。
「雅び」に対して「鄙び」が生じ、「侘び」や「さび」が美的概念として成立する「茶の湯」も、権力的な確執の疲れを癒す慰撫としての母胎回帰の場の規範である。慣れ親しんだものや、隠微で親族的な情趣が醸す味わいを絶対化する、意識の最後の自由の拠点。その簡素で狭い空間やにじり口の象徴的意味も明らかだろう。人為的秩序の力に対する砦は、力の秩序を賢しら=野蛮と笑い、仲間内のささやかなルールを絶対化して、貴族主義の小さなサロンを形成する。和歌における「古今伝授」、いけばなの世界も、同じような心情を支えとして成立していたのである。
草月流もこのように、はじめは他のいけばな流派と同じような基盤から出発した。いけばな流派も、団体固有の文化価値を掲げて自己を価値づけようとするが、それぞれの流派的な特徴は、必ずしもいけばなについて特別の理念を持った人々が集まって作り上げてきたのではない。家元制度は、在野の親族組織にも似た私的な集まりだった。流派のまとまりや特徴などは、所属する人々と共に、流派のつながりの中で練り上げられてきたものである。仲間は相互に干渉し、その範型に従いながら、それぞれの作者の癖や特色を、そのイメージの中に納めていこうと努力する。偶然に支配されてしまうわけでもなく、指導者たちにとっても、自分が拵えた理念を押しつけるような場でもない。成りゆきが作り上げる秩序に過ぎない。人はある文化の中で育ち、上級権威が与える教育によって、所属する集団の枠組を受け入れ拠り所を得る。規範を教え、意味や価値を提供し、仲間に似せて自分を作り、経験や加齢によって教える側に立場を移す。その限りで、流派は人々を拘束し自由を縛るが、所属する人にとっては、練り上げられるべき表現の場とかたちを与えるシステムでもある。こうした閉鎖性を支える価値として、「自ずから成る」、「自然」が祭られ、作為は自然に紛らされてきたと思われる。
しかし、草月流ではそれ以上のことが起こった。勅使河原蒼風は、端倪困難だが誰もがその傑出ぶりのわかる指導者である。門弟が彼に従ったのは、その説得力に圧倒されたからだ。蒼風の変化の度に弟子達も新しい飛躍を経験していった。彼はすでに一家をなしながら好奇心旺盛で、新しいものを取り入れていく度量と、変化に対して先を見通していく力があった。彼は、第二次大戦後の欧米との出会い、渡米、渡欧という新たに生まれた機会を受けとめ、自然との新しい関係を築き、それによって彼のいけばなに変更を加えていくことで、いけばながそれまでもっていた規範を大胆に越え出てしまった。それまで祭られていた「自然」とは異質な、知覚の最前線の自然から、新たな啓示や霊感を掴み取る方法を見つけだし、その手だてまで示す力量に、人々は賛辞を送ったのである。
勅使河原蒼風と草月が繰り広げる世界の多様さと面白さは、第二次大戦後の空前のいけばなブームを呼び、他流派も巻き込む大きなうねりを作り出した。だがそれは、蒼風が流行の思想やブームにうまく乗ったからではない。表面的な流行の奥に、変貌しながらつながっていくいけばなの未来を見通し、「日本語」の狭い自然観を裁ち直し、より大きなパースペクティブを与えた。そして、偶然性や自然のもたらす新たな意味を開き、それを共同作業戦略で立ち上げていく道すじを確立した、その洞察力の深さが人々を説得したのである。

注及び参考文献

1-第一章(注)十四 中村雄二郎『かたちのオディッセイ』
2-草月よもやま座談会『いけばな草月』26号、草月出版、一九五九年
3-草月出版編集部『創造の森』草月出版、一九八一年
4-まえがき 注三 北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社
5-村形明子編・訳『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵アーネスト・F・フェノロサ資料』第二巻、ミュージアム出版、一九八四年
6-阿部謹也『アルブレヒト・デューラーの自画像について』『ヨーロッパを読む』石風社、一九九五年
7-『プラトン全集』岩波書店、特に後期の著作『ティマイオス』『プラトン全集』12巻、プラトンに対して生成の概念を持たないとの批判があるが、事実ではない。詳しくは、藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書537を参照のこと。
8-荒井献+柴田有『ヘルメス文書』(株)朝日出版社、一九八〇年
9-『哲学原理』岩波文庫33-613-3、『デカルト』中央公論社、世界の名著22
10-滝浦静雄『「自分」と「他人」をどうみるか』NHKブックス596、一九九〇年
11-浜田寿美男『「私」とは何か』講談社、一九九九年
12-第一章5 述語文で現される世界、36ページ

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