勅使河原蒼風5 勅使河原蒼風の彼方(広瀬典丈)




目眩めく生命の祭-勅使河原蒼風の世界5 1← 2←
Paper of Ikebana (Michtake Hirose ) 3← 4←
(広瀬典丈)

エディット・パルク(2002年2月20日発行)
 ウ617-0822 京都府長岡京市八条丘2-4-14-506
 TEL075-955-8502
○定価 1,600円+税 ご注文は、書店、出版社、私たちに直接でも結構です。(ISBN4-901188-01-1)
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(5)勅使河原蒼風の彼方

Contents_まえがき (1)勅使河原蒼風の作品イメージ
(2)草月流と「近代芸術」(3)いけばなの成立と近代いけばな
(4)勅使河原蒼風のいけばな

(5)勅使河原蒼風の彼方
1「いけばな」という制度 2勅使河原蒼風と批評精神
3勅使河原宏 竹のインスタレーション 4渦巻く生命の表徴 あとがき

1 「いけばな」という制度

「日本」という枠組みがいつからできたのかは知らない。それが以外に古くはなく、はっきりとしたかたちを取ったのは、明治政府以降のことであるという。近代国民国家ができてから、慌てて、「日本文化」、「日本美術」などと呼ばれる虚構が作られていった。「国民」は均質さを要求し、地域的、階層的な差異を隠蔽する。「国民」の同一性という亡霊が立ち上げられ、古来から固有性としてあったかのように語られる。実際に人々が住んでいる場所には、さまざまな場面で、幾層ものモザイク状に絡み合い、反発し相互浸透する、開かれた出来事の舞台があると考えるのが、おそらくより事実に近い認識だろう。文化とはそうしたものだ。また、人々が心安らぐ閉じた空間に安住できていたことはあまり無かったに違いない。名状しがたい人間関係の中で、多くの我慢を重ねて受け入れ、あるいはささやかな実力を行使し、やっとの思いで自分の生を全うするというのが実状だろう。巷には交流不可能な意識のすれ違いが溢れている。
しかしそれとは別に、常に閉域として自らを意識し、内に閉じていこうとする力、対他の自画像としての「日本」があることも事実である。それは、「自ずから成る」という、ある種の開かれた智恵を使って、優勢な外部の文化の毒を抜きながら、巧みに吸収・調理する。実際は、嵐の前に成す術もなく立ち尽くし、成りゆきに従い、しかも、後かたずけで何か拾ってくる、というような智恵だが、そこには、役立つものは何でも利用する柔軟さと、でき上がった規範に縛られて、自分ではそれを少しも変えられない受け身との併存がある。外部、他者の眼差しに合わせて姿を整えていく「日本」人によって、たとえば、留学生に「日本文化」として晴れ着を着せ、いけばなを体験させるというような、「日本」というナショナリズムを立ち上げていくための格好の装置として、いけばなはいつも利用されてきたのである。
だが、いけばなは、神道や仏教、儒学や文人趣味、西洋仕込みの芸術論などの、外部からの力によって、何度も組み替えられ、新様式を生み出してきた。硬直した規範が出来事の地肌を覆い隠すような仕組みになり、生の実感を受けとめられないと気づいたとき、新しい器を求めるのは当然の成りゆきであろう。そのつど現われる新しい形は、初めのうち、いけばなの世界を大きく逸脱するように見えるが、しばらくすると、それ自体がいけばな的なまとまりの中に吸収され、いけばなの新しい構造を作っていく。いけばなはそれによって変化したが、他のものに吸収されたりはしなかった。それが宗教であり、人為であることは言うまでもない。人為を成りゆきとして、自然に紛らすことは、批判を封殺する制度として機能し、さまざまな言説にたがをはめ、表現行為に限界を持ち込むことである。
西洋近代は、異文化間の国際関係の中で鍛えられてきた都市の文化であり、相互理解を可能にする擬似普遍性を持っていた。近代都市文化としての西洋は、他者との交流が困難な共同体的な祝祭やイコンを否定して、その代わりに、近代合理主義とリアリズムを対置したのだ。近代自我という新しい神の、普遍性のめっきの後ろには、西洋ローカルの枠組みもある。しかし、現代の世界には、西洋や「日本」などの文化が独立にあるのではない。「固有文化」など世界中のどこにもない。おそらくどの時代にもどこの場所でも、文化はさまざまなところで交差、衝突し、変貌しつづけて来たのだろう。また、今では、江戸時代はおろか、明治・大正期の大衆文化さえよくわからなくなっているのが事実なのだ。逆に「近代」が人々を捉え国境が決定された時、さまざまに話されていた名もない「言語」が、「国語」によって統一され、その地理的境界内にあるものは整合され、個々は「外国語」のように大きく変化して、新たな語彙や言い回しを獲得し、今も変化し続けている。
西洋のような、ものと差し向いになる意識は、その背後に理性的な存在を予想し、意識は永久にものの意味を問い続ける。ものと向き合わせの関係を持たなければ、自然とは、「自ずから成るもの」であり、草木は超越的な意味も理由づけも必要としない。超越の暗示である草木の花実・青葉・紅葉が、四季の移ろいを映す時、人がそこに自然の特別なしるしを見、いけばなという形に作り上げたことに不思議はない。しかし、ものの向こうに自然という神を置けば、草木も私も抽象化され無化されてしまう。草木の向こうに自然があるのではなく、一つ一つの出来事の多様性が自然であり、彼方にあるものは作られた「語り」としての「自然」に過ぎない。草木が背後を暗示するのではなく、草木にこそ謎はある。人が花を心の比喩とし、花模様を飾り、花無しには祭礼も行なわないのは何故なのか。それほど花は人を虜にし、心を打つ。それは草木が知覚に放つ矢だ。
何ごとかが起こる現場で、「自ずから成る」規範は、何でも受け入れる柔軟さでものを調理し、巧妙に人を図って、新たなものの出現を阻む構造ともなりうる。同じように、制度としてのいけばなも、柔軟な受け入れの下で、草木が放つ矢を受けとめるのではなく、巧みにそらし、枠にはめる手枷に過ぎないときには、思い切ってそれを取り去る勇気を持つべきだろう。しかし、西洋がもたらした近代批判という武器は、実は西洋をアイデンティティとして持つ者にとっての武器に過ぎない。そうでない者には、西洋人が経験したような意味では、近代もなければ自我もない。そこでできることは、「自ずから成る」を対象化する足場を、本当に持つことができたのかという自問だけだろう。
「いけばな」という制度が無意味になるような場所とは何だろう。おそらくそれは、いけばなが世界各地で受け入れられ、そのそれぞれが、自由で独自の活動を展開するようになったときに訪れるものだ。西洋でも花はアレンジメントとしての歴史を持っているが、それがファインアートと意識されたことはほとんどない。フラワーアレンジメントが花屋の職分だったからだ。ファインアートが事物を対象化する、「近代自我」の信仰と不可分であり、その担い手である知識人=アマチュアのものであるのは、近代オリンピックと同じ貴族主義の精神である。職人はその技術ゆえの尊敬を受けることはあっても、身分そのものは下位に留まる。
いけばなは、花屋とは別の職種であり、座敷飾りや式典の担い手、文人として、古くから尊敬されてきた。好事家とも言えるこの立場は、西洋の知識人=アマチュアのディレッタンティズムと不思議に対応している。「いけばな」は、初めから西洋社会に受け入れられる基盤を持っていたと言えよう。今でも、「いけばなインターナショナル」の組織が、世界中で一万人ほどの愛好者を集めている。いけばなを習うことの易しさや指導免許習得の手軽さ、困難な市場での商品化を最初に放棄して、展示会やデモンストレーションをボランティアで支える仕組みも、欧米の有閑階級には望ましいものでさえあった。
いけばなが、「家元制度」という分断された私的団体を越えて統一されれば、国際的な認知をさらに得られると思われる。「いけばな」を真正面から研究しようという動きもあるからだ。ドイツの園芸学校では、遅くとも七十年代までには、「生花」の花留めや花型を教え、薄端・玄猪・現代花器、いけばなテキストまで揃っていた。私の経験でも、一九九八年、いけばなインターナショナル名古屋支部とパリ支部共催で行った、パリ花展の出品者の一人のスイス人女性は、古い立華図をもとに、独学で立華をいけていて、ドイツ・スイスあたりでの古典いけばなの研究が、独自の展開を見せていることを窺わせた。おそらくドイツ圏では、格花の枝配りの論理性が、魅力あるものと映るのだ。イギリスのフラワーデザイン界への「いけばな」の影響も、無視することはできない。紆余曲折はあっても、技術としての「いけばな」は、やがて国境や流派を越えた国際様式として、フラワーデザインの一分野としての場所を、獲得することになるだろう。
一方、二十世紀後半には力を失った「芸術」という制度が、そのまま再興できるとは思われない。大芸術家の時代は終わり、昔傍系であったデザイナーや工芸家、その他、作り手が、続々「アーティスト」として市場に登場する時代がきた。もちろんこれは歓迎すべき民主主義である。従って、近代芸術や工芸、工業デザイン、あらゆる情報メディアなどとともに、いけばなにも、気まぐれな現代の商業空間の中で、流行ブランドを獲得できる可能性はある。だがそれは、いけばなや芸術、その他あらゆる生の体験が、かつて持っていた力とは違う。現代の均質な都市空間は、あらゆるものごとを疑似体験に変え、生の現実と触れ合う機会を奪っている。欲望は他者を模倣し、互いの目配せによって、流行に敏感な消費者のサロンを形成するだけだ。何事も起こりはしない。ただ、主役を入れ替えながら、反復されるドラマを楽しむ、観客がいるばかりである。

2 勅使河原蒼風と批評精神

「芸術」、「独創性」、「個性」、「自己主張」、「近代」という、制度を飾る調度を支えてきた「近代自我」の信仰は、成立の当初から、強力な批判に晒されてきた。執拗な批判を繰り返したのは、文学者や芸術家を初めとする、近代都市が生み出した知識人たちだ。近代批判が、実はただの覇権争いであり、それが「芸術」という制度のほころびを繕ってきた、という面も否定できない。近代以降の「芸術の歴史」である。しかし、こうしたさまざまな近代批判によって、多くの文化や個々人の仕事が横断的に比較され、多元的な相互作用や引用により、開かれた世界性が実現したのである。多くの懐疑と葛藤を抱え込み、対話性を軸に展開された西洋の知性のあり方に対して、「自ずから成る」を柱とする世界が、厚みのない世界に見えることは避けられない。「外部」を持たない意識の不毛さ、の指摘である。
これは、「日本語」なるものの文法が、相手の存在に敏感であり、自我の向こうに相手を見出していたことと矛盾しているようだが、そうではない。他我によって見出される自我は、他者と自分の同型性を前提する。同型性を拡大する限り、世界に切れ目はなく、従ってその外部もない。自然も作為も、話せばわかる自明性として処理される。理解しあえる相手とだけ、互いの機微を交換しあう構造は、囲いこみと他者の排除によって閉域となる。逆説的だが、デカルトが行ったコギトは、自我をいったんそれ自身の内側に閉じることで、同型性の閉域から離れようとする戦略だった。比喩的に言えば、「近代自我」は、囲い込まれた村から、解放空間としての都市へ、移動する人々が、取らねばならなかった防御戦略なのである。
国民国家とナショナリズムは、つながりを失い、ばらばらにされた個々人の意識を再び閉じて、新たな統合を作りだす装置だ。一方、都市空間が作り出す交渉や対話技術の進歩が、異質な者同士の対話を可能にする。近代都市空間の魅力とは、文化と文化がぶつかり合って新たなものが生まれる、緊張と生成の場所となる。そこには「外国人」も当然存在する。彼らは、日常生活において、自己を他者(外部)として見る=自己対象化ということを、徹底して行うほかない存在なのだ。西洋近代社会の、自己対象化と「多数体系」間の交通という、思考の重層性は、西洋都市の国際性と、異質のもの同士の対話技術という、永い歴史背景の産物であったと思われている。
近代社会の複合世界性と自己対象化が、もの作りの中に「自己言及」という契機を与え、共同体の規範に対する批評精神の拠り所となる。第二次大戦後、勅使河原蒼風が触れた西洋世界は、全てではないが、さまざまな「外国人」に機会が与えられる、開かれた世界としてあった。彼を迎えた西洋の知性の中には、蒼風や「日本文化」を、ジャポニズムという流行りとしてではなく、彼らの近代批判を浮き彫りにするための武器、と考える人々もいた。さらに、その戦略的立場をも越えて、他者性としての蒼風から学ぼうという姿勢の人さえいたかも知れない、と思わせるのが西洋なのだ。
勅使河原蒼風も人の子だから、敗戦後の渡米・渡欧に、不安がなかったはずはない。しかし、蒼風の非凡さは、誉められて自信を持ったばかりでなく、その受けとめの大きさに応じて、パフォーマンスのスケールを大きくし、観客に応えていけるだけの、技量と懐の深さを持っていたことにある。アドリブの世界では、観客との緊張関係に耐えながら、他者の共感を得る方法を探らなければならない。彼も時には、約束された観客との予定調和を越えて、他者としてあることの孤独を味わったはずだ。それを見抜いたからこそ、彼は、自分を「日本文化」の総体を代表する存在として呈示し、一歩も引かぬ気構えで観客の求めに応えていったのである。
欧米旅行の後、勅使河原蒼風は変わったと言われている。同じことは勅使河原宏にも言われる。彼らがそこで味わったカルチャー・ショックがどれほどのものであったか。それは、何度も語られ、勅使河原宏の映画『アントニー・ガウディ』などの映画にも結晶している。
が、私が言いたいのはそのことではない。勅使河原蒼風は、学ぼうとする彼らの率直さを受けとめ、それに対してある種の驚きを持って応じた。彼も、日本にいるときとは異質な、その観客との間合いから、彼らの文化に対して、一つの距離を取る方法を学んだと思われる。自己の位置を相対化せざるを得なくなったわけだ。そればかりではない。彼は、世界の著名な芸術家と並んで、そのうちの一人として見られる。世界に対して、「日本文化」を代表する表現者としてふるまわねばならなかった。彼を取り囲む欧米の知識人の大半は、すでに一級の名声を得ていて、彼らの構築物を世界に示している。蒼風がその後、彫刻的な作品の数を急速に増やし、絵画や書など、欧米にも通用し、商品化できる作品を作っていったのも、彼らに対する自意識の現れともみなせる。いずれにせよ、彼は、否が応でも、自分が見られる側、対他として、想像された共同性としての「日本文化」を背負っているということを、感じざるを得ない立場になったということである。
蒼風のいけばなには、自己対象化の契機がない、と私は前に述べたが、むろん、文学以外の芸術に自己言及性が無いのは、ある意味で当然である。しかし、敏感な現代人にとって、複数の価値が交錯する都市空間を生きるとは、自己の世界を相対化するということだ。床の間を飾る彼の花の、一見もっともらしい枝配りの中には、創造=想像された「日本文化」をも含む、しかつめらしい制度を笑うアイロニーが含まれているし、彼のいけばなの全てが、実は、過去のいけばな史総体に対する、パロディだという見方も不可能ではない。次ページ下左の写真を見てほしい。床飾りにイサム・ノグチの焼き締めオブジェを使い、そこに、どう見ても古典的に見える枝配りで梅をいける。後ろに掛けられた蒼風の書は、「八雲」だろうか。ここに出現した世界は、戯れという他ないものだろうが、彼のいけばなの冴えや、オブジェや書との絶妙のバランスには、有無を言わせぬ構築の意志が感じられる。
彼の作品は、いけばなばかりではなく、例えば、土偶や縄文土器、ロダンなどの近代彫刻、淋派などとも響き合う、引用の遠近法によって構成されている。「自己」を説明するような叙述性や、叙情性が感じられるもの、あるいは、ミニアチュール花というような、花びらの断片や葉や枝、実の一部をクローズアップして、観客を造化の不思議に導こうとする作品もある。次ページ上のミニアチュール花では、口紅の蓋や瓶の蓋、おもちゃなど十一の容器に、小さな実やカーネーション、スイトピーの花びら一枚、花心などが並べられている。鑑賞者は、そこにあるものを見交わすうちに、勅使河原蒼風の皮肉な眼差しをも感じ取るのではあるまいか。
これらの作品をあげたのは、もちろん私がそれに、批評精神や自己言及性のようなものを感じたからに他ならない。勅使河原蒼風は、「いけばな」の閉じられていた枠組みを開放し、それまでなかった新しい方法と、花材の自由を与えた。いけばなの変化をこれほどに体現した人物はいない。しかし、彼が流派という古い制度の内に留まり、いけばなのアカデミズムを構築しようとがんばっていたことと、現代芸術の前衛たらんとしたことの矛盾について、彼はほとんど言及することがなかった。勅使河原宏との違いはそこにある。勅使河原宏がその人生の転換点で、何度も苦渋の選択を迫られ、幾つかの決定的な決断をへてきたことを考えれば、蒼風の態度はいかにも不徹底な印象を与える。
だが、「自ずから成る」から出発し、知覚の最前線の自然から、新たな啓示や霊感を掴み取る道を求め、結果として、規範のたががはずれた、そのふてぶてしい諧謔は、彼独特の批評精神と考える他ないものだ。語るべきものを持つものには、良心的なポーズは無用である。舞台に上るものだけが表現の場を得る。そのために、使えるものは躊躇なく使う。その是非は、彼が残したものに対してなされればそれでいい。彼が家元制度や古い慣習上の立脚点の矛盾を生きながら、そこにとどまり、言い訳もしなかったことは、それ自体が彼にとっての、倫理的な態度であったと同時に、それが彼のあり方として、多くに受け入れられたという事実を言う他ないことであろう。
蒼風のいけばなは、江戸時代の「中国」趣味を受け入れた〈文人花〉から始まった。「自ずから成る」と「作為」を巧みにつなぐのが、彼のいけばなの構造である。いけばなが扱う花材は、流木や廃材に至るまで、すでに形と意味を持っていて、いけばな作家はそれを引きだし、いかすのが仕事である。ただ、いけばなが扱うものが、西洋では、オブジェとして受けとめられ、いけばなはまったく別の文脈と交差した。むろんそれは、そう受けとめる西洋の文脈上での出来事だが、蒼風がその出合いから汲み上げたものも、小さくはなかった。勅使河原蒼風は極めて実践的な行動者であって、第二次大戦後の渡米、渡欧という、自然との新しい関係を築く契機を見逃さなかったのである。確かに、蒼風に対して、彼の立場を問うような自己対象化を期待することはできないし、他者との関係に、絶対的な外部を見るような、孤立した自我の立脚点も無い。おそらく、西洋との出合いによっても、「自ずから成る」の自然観に、決定的な変更を加えることは無かったと思われる。彼にとっての他者は、最終的にはやはり、共感可能な相手であり続けたであろう。彼は欧米での成功によって、欧米の観客に理解されたと思ったはずだ。しかし、事実は彼らの大部分も、それを一つのエキゾチシズムとして楽しんだだけで、自分たちの生の体験に組み入れるような気持ちはまったく無かったかも知れない。
彼にとっての家元制度も同じである。西洋との出合いは、伝統的ないけばな継承や指導のあり方に疑問符を突きつけ、バウハウスへの関心や、いけばな指導に造型理論を用いる、などの方法を呼び起こした。しかし、そうしたことの全てを取っても、彼は、家元制度の枠組みを越えて、いけばなの制度を変更していくという視点を取ることはなかった。それは、彼がその制度にうまく馴染み、調和する人間であったからだ。彼は、それまで西洋には無かった、「自ずから成る」を取り込むという方法を、世界中の多くの舞台で観客に示した。自然に対する柔軟な感受性と並外れた適応力、その技の魅力が受けとめられた、と思われた。彼が、他のいけばな作家にはとうてい不可能だった、世界的な大きな視野を持って、作品を作ることができるようになったことは素晴らしいことである。しかし、彼の成功は限定的なものだった。西洋の観客の多くはそのアトラクションに拍手しただけに終わった。勅使河原蒼風も、けっきょく、彼のいけばなを、「草月流」という枠の中に囲い込み、世界中に「草月流いけばな」を広めるという、流派としての戦略としてしか、それを考えることができなかったのである。
彼のいけばなは、けっして草月流という枠内だけで語られるべきものではないし、現代芸術の一エピソードとして語られるべきものでもない。勅使河原蒼風を考えることが、西洋の近代と、「近代日本」以前や「日本近代」を併せて対象化する、そういう視野を提供できるように思える。さらにその向こうで、人の感受性の不思議について、ほんの少しでも思いを巡らせることができれば、勅使河原蒼風の作品が持つ意味は、はかり知れないものとなるだろう。

3 勅使河原宏 竹のインスタレーション

一九七九年九月、勅使河原蒼風は急性心不全で死去した。翌一九八〇年八月には、二代家元に就任したばかりの勅使河原霞が四七歳で父の後を追っている。脳腫瘍だった。
蒼風と霞の相次ぐ死という偶然が無ければ、勅使河原宏が草月流の家元に就任することは無かっただろう。彼は、草月との関わりを持ちながらも、自分の仕事として、雑誌編集や欧米現代芸術やガウディの紹介、映画制作、さらに越前での陶芸などを選んでいた。彼は草月の活動に対して、側面からそれを支えながらも、一定の距離を置こうと考えていたのである。
勅使河原宏は、蒼風によって始まった「戦後いけばな」のピークが終わり、次の、『いけばな批評』という媒体を軸とした「現代いけばな」派の退潮も見えてきた一九八〇年代に、いわば、二十年遅れで戻ってきた「前衛」として登場した。彼は、戦後日本の「アヴァンギャルド」運動を推進したメンバーの一人である。東京美術学校(現東京芸大)在学中から、シュールレアリズムや前衛芸術に興味を持ち、岡本太郎らとの親交から、一九五〇年、安部公房、関根弘らの「世紀の会」に参加。また羽仁進らと「シネマ57」を結成して、実験映画の製作を試みる。一九六二年の『おとし穴』以来長編映画の製作を始め、六四年、『砂の女』では、カンヌ映画祭審査員特別賞受賞など、国際的な名声を獲得していた。
一九五〇年代から六〇年代は、世界的に、「現代芸術」といわれる、芸術の前衛運動の黄金時代となった。六〇年代、日本という地でその活動を支え、企画・演出したのは、勅使河原宏であり、草月会館ホールはその主要な舞台であった。草月アートセンターは、「不確定性の音楽」を提唱するジョン・ケージを始めとする、「世界の最先端の情報」を発信し、発表の場を渇望する若い芸術家に、その機会を提供した。現在活動する芸術家の多くが、この恩恵を受けている。しかし、奈良義巳はそれを「六〇年代の活力あるメ装置ヤ」と述懐しながらも、それが七〇年代に入って終焉したことも告げている。その原因や、「現代芸術」が抱えていた問題点について、今ならいろいろの指摘ができることは、前から述べてきた通りである。
誰もが知っていることだが、当時の、政治における「前衛運動」と、芸術の「アヴァンギャルド」には対応関係がある。世界の反政府運動の担い手のかなりが、元フランス留学生達だった。フランス知識人は彼らを、同じサロンの一員として応援していた。しかし、フランス留学生は母地に帰ればエリートであり、支配者の予備軍に過ぎない。七〇年以降、世界各地での彼らの政治活動の行状が明らかになったところでは、前衛や左翼性など、彼らが西欧で受けた教育の意味も問われざるを得ない。政治にしろ芸術にしろ、フランス支配階級は、自分が保守主義者と目されることを極端に嫌うが、フランスは今なお階級社会である。彼らが「前衛」好きなのは、それが彼らの意識の自由を保障するように見えるからで、消去したい自己の身分がそれをさせるのだ。「前衛芸術」の中心がニューヨークに移ってから、その政治性は薄れたものの、抜きがたいエリート意識に支配された、啓蒙精神に違いはなかった。七〇年代の、政治的な左翼神話が崩壊していった過程と、「前衛芸術」運動の凋落は、同一の枠組みの中で起きた、パラレルな出来事と思われる。
しかし、彼らと勅使河原宏を分けるものが一つある。彼の姿勢は啓蒙ではなく、人の話を聞くところにある。変化を肯定し、個人や全体という一つの意識に閉じられることを嫌う、複数の意識が交差する場所で、そこに浮かび上がってくる形を捉えることが、彼の創造だったのだ。彼が自分の作品発表よりも、他者の紹介やプロデュースに努め、彼らのパフォーマンスに対して、介入や制約を努めて加えなかったことにも、それは現れている。
勅使河原宏が草月アートセンターで実現しようとしたことを、彼自身の言葉を借りて言えば、「ジャンルの混合と美術の総合」であり、「こちらが主体になって、誰かを呼んできてやらせるというのではなくて、アーティストがやりたいことを自発的にやる、そういう実験の場にしたい」といったことであった。彼の映画製作も同様のコラボレーションであり、そこでは、原作・脚本の安部公房、武満徹や一柳慧、高橋悠治の音楽、粟津潔のポスターなど、それぞれがまったく「自由に自発的にやる」姿勢で参加していたようだ。後に加わった磯崎新は、それを『座』と表現した。

宏さんは……コラボレーションの必要な仕事を選んでいる。茶会のプロデュース、大がかりなインスタレーション、そして、舞台の演出。それは座の仕事である。映画も同様だ。こんなとき、座の中央が空席だと、火花が散って、昂揚する。宏さんはそん な仕掛けが実に巧みだった。(磯崎新『勅使河原宏は『座』の表現者だった』(草月257号)

磯崎は同じ文章の中で、「前衛による芸術の展開は一九六八年に停止した」と述べ、その後の勅使河原宏の越前陶房での陶芸生活を、「挫折を味わった後の、手仕事への撤退」と解釈している。一九八〇年、勅使河原宏の草月流家元就任は、そうした全ての後になされたのである。
しかし、家元就任後の彼の活動は精力的なものだった。彼が最初に行ったのは、草月の機構改革とカリキュラム(指導教本)の単位制マニュアルの作成である。それまで指導者の師弟関係を軸にして作られていた地方支部を県単位に改め、支部役員を選挙で決める、免状収入の一部を財団法人の資金に充てる、まちまちだった各教室での指導を単位制マニュアル化した、など、画期的な内容であった。その実施にあたっては、各地で説明会も開いている。
詳細な説明は不要なので省くが、私はこの説明会に行き、「一県一支部」と「カリキュラム」に反対した。勅使河原宏には、私が、若い守旧派と見えたことだろう。だが、彼の改革の数年前に、私の所属支部では支部規約を作り、選挙で役員を決めるようになっている。規約作成には私も参画した。指導マニュアルについては、独自のもので二十年以上前から単位制で実施しているのだ。私には勅使河原宏の改革が、下の意見を聞かない、上からのものと映っていた。「地方の若い師範の反対などささやかなもの」と、私は思い切って言いたいことを言った。その後、私も、勅使河原宏が、彼自身の負っていた立場の矛盾に対して、どれほど真面目に関わろうとしてきたかを少しずつ理解できるようになった。しかも、彼は、私のようなあり方に対しても決してなおざりにしないのである。
ともかく、勅使河原宏は、草月の場を、それまでよりもずっと開放空間にすることに成功したように見える。それぞれが別々にいけながら、それらをつないで協同製作とする「連花」や、竹のインスタレーション、植物素材や、その他さまざまの材料を使った協同製作のトンネル=「花くぐり」など、多くのイベントを成功させていったのである。いけばなが流動化し、変化するには、それまでの安定した場所から別の場所に発表の場を移し、方法を変えるのが一番である。勅使河原宏はそれを熟知していた。竹のインスタレーションでは、竹の間伐材を利用しながら、大作を実現して行こうとするもので、それは、今まで環境負荷の大きかったいけばな大作の花材問題を、百八十度転換させるようなアイデアでもあった。それらはどれも、材料の持つ質感や特性を工夫し、多数の意識の交錯の中で一つのプロジェクトを立ち上げていく、という姿勢に貫かれている。
それにしても、竹によって自由にその都度仕切られ、立ち上がる中空の存在感には圧倒される。彼の創造が満たされる瞬間は、そこにあったのだと思わせるような、自由と癒しを感じさせる空間だ。現代芸術の担い手の多くは、根拠のない特別製の自意識を作品の根拠にするが、勅使河原宏は、自身の意識を無に近づけ、人々の多数の意識が出合う、瞬間的なその場、「一期一会」の空間そのものを創り出そうとしているかのようなのだ。
中原佑介は勅使河原宏の竹のインスタレーションについて次のように言っている。

勅使河原宏の竹の採用が特徴的でもあり象徴的でもあるといったのは、……二つの点においてです。ひとつは、モノとしての作品の永続性を重視しないということ、もうひとつは、空間性を至上とするということ、このふたつによってです。……しかし、よくよく考えてみると、こういう考えは「いけばな」に本質的なことであり、むしろ先祖がえりした考え方という見方もできるかもしれません。つまり父の勅使河原蒼風さんはそういう伝統的な考え方に反抗して、西欧型の造型思考に同調しようとしたともいえるからです。蒼風さんにはいけばなの一過性が悔しいという思いがあったかもしれないのに対し、宏さんにはそれがむしろ強みだという考えがあったように思います。……一過性とは、作品がどこでも通用するのではなく、この場所でしか存在しないということを示す作品のことです。日本のいけばなは戦後どこでもいいという発想で展 開してきました。それがいけばなの新しさだったわけです。そうではなく、この場所でしか存在理由がないという発想が生れつつあります。
(中原佑介『勅使河原宏とは何者だったのか』草月257号)

続けて中原佑介は、勅使河原宏の言葉を引用している。

植物素材は、鉄や石にくらべて時間的持続性がないという。そんなことはどうだっていいことだ。ある瞬間に猛烈に花開いて全てをいいつくし、ぱっと消えてしまうという表現で十分なのだ。その瞬間瞬間に、現実の空間の中でどれだけ人々に刺激を与えたのか。そのときどれだけ自分を昇華させ得たのか。問題はそれだけでよいのだ。 我々の仕事はそういう点にこそ存在価値をもっている。少なくとも私はそう理解している。(『草月カリキュラム』)

この一過性と空間性の強調にも増して、勅使河原宏が強調するのは、いけばなが「固定したもの」ではなく、「時代時代にかたちを新たに持つもの」、つまり、いけばなの歴史性への言及であろう。前衛神話の崩壊と一緒に、「歴史の終焉」を語る論が流行った。今はそういう逆説としての歴史を語る者さえ珍しい。第二次大戦後の国家体制の再編過程で、反体制運動と挫折を経験した人々は、内面的な意識における自由を担保にしながら、外面でその制度を受け入れていった。その過程で多くの人々の意識は、最終的に体制を受け入れる側に変わっていったと思われる。家元制に反対した勅使河原宏は、一度はその制度の外に出たものの、思わぬ偶然で、家元制度の頂点に立つことになった。しかし、彼にとってのほんとうの対象は家元制度ではなく、近代美術という制度だった。それを打ち破る創造の場として、草月は彼に、新しい舞台を提供したのだ。彼は変化するものとしていけばなを捉え、その場を使って彼の挑戦を続けたが、彼は自分の発表の場を欲しがったのではない。草月においても彼は、台頭してくる力を信頼し、彼らにやりたいことをさせる場を作ることに努め、イベントを次々に打っていっている。彼は、企画、演出家、監督として、役者を育てる、指導者としてのヴィジョンを持ち続けた。
彼が、「自分は家元制度の内側で、それを改革する道を選んだ」、と考えるのは無理からぬ理屈である。

「組織というものは、ただつぶせばいいというものではない。古い革袋に新しい酒を入れればいい」
「草月の組織は二重構造になっている。免状による階級組織と、財団法人という会員組織。僕は家元制度という縦割りの構図に、一本すうっと横糸を通した」。

彼は、こうして草月を、さまざまな活動を支えるための比較的平等な開かれた組織、と考えるにいたる。勅使河原宏のこの考え方には、むろん単純化があり、全てを肯定することはできないが、彼が、いけばなの世界を、他流派には例を見ないような開かれた組織にしたことは、先にも触れたことである。そして何よりも、いけばなばかりでなく、その組織についても、固定するのではなく、家元制度も含めて、常に革新して行かねばならないものとして考えていたことも、彼の功績の一つと考えられるのである。

4 渦巻く生命の表徴

『エセ・ロマンティック(小説の死)』(秋津伶著)という奇妙な小説がある。それは、小説が成立する基盤そのものを問う小説なのだ。そのあとがきに次のような一節がある。

ルールがゲームを成り立たせているのではない。同じゲームをしているつもりでも、知らぬ間にルールが変わっていることはよくある。バットとボールがあれば、子供達は遊びはじめる。…………定義があって世界が発生したのではない。緯度経度とは地球儀に引かれた線では   あっても、地球に引かれている線ではない。すでにある定義やジャンルを否定しているのではなく、その境界線を引くこと自体がすでに見方を決定しており、言語ゲームを遂行していることであるといいたいのだ。ウィトゲンシュタイン風にいえば、「言葉の意味とはその言語ゲームでの使われ方にある」のであり、新しい言語ゲームによってルールを確定したとき、そのルールはすでにして乗り越えられているのである。その不透明で不条理なゲームの推移を「歴史」と呼んでもいい。とすれば、「歴史」を記述する「歴史」は、つねに「歴史」によって乗り越えられる運命にある。その悲喜劇からは、外部を標榜する「学」者も「評論」家も逃れられない。その無力から出発し、再びその無力に到達する反復を、わたし達は避けることができない。意味作用に終わりがなく、「歴史」に終わりがありえないのは、設定しない限りそのはじまりがないのと同じである。(秋津伶『エセ・ロマンティック』ゾーオン社)

秋津伶のように、小説成立の根拠を問うかたちで小説を書き、そのあとがきでもその反復を語らざるを得ないように、現代芸術は、自己を問い続ける自意識の自壊作用として崩壊した。意識の在処やそのかたち、症状を云々してみても、何の認識にも到達することはできないことがわかったのである。しかし、こうした内省の反復の外側を紡ぐ「歴史」をよそに、その内部で、人は不条理なゲームを続けていく。人間であるかぎりはそこから外に出ることはできない。
人の神経系―脳の構造は、最初から自他の互換性を前提に作られている。人にとって共感を拒むような外部を想定すること自体が虚構であり、人は互いに通じ合える世界としてしか、世界を立ち上げることはできない。そうして成立する世界は、プラトンやヘーゲルにとって、人間精神の偉大さと見られたものである。事実はそれは、人間の限界としてある。人は知覚の外を見られないように作られているに過ぎない。そこにお互いが通じ合っているつもり、乗り越えたつもり、の「悲喜劇」は生まれる。
人々は今や芸術家の自意識の表出に飽き飽きしている。しかし、画家や彫刻家、ものの造り手の主題は、近代以前には「自己」であったことは一度もなかった。彼らは、知覚が感受するものの意味を問い、自他の互換性として立ち上がる世界に、視点の共有と置き換えを重ねながら、流通可能を絶対条件とした、商品としてものを作っていた。主題さえなく、他者が面白いと受けとめられるものを、考え続けただけである。それは自己言及ではなく、他者を知る工夫である。商品を売る市場はぎりぎりの選択の場だ。共通の言葉だけが流通する貴族のサロンとは違う。売り手も買い手もゲームを楽しむゆとりもないほど本気の勝負の場だ。勅使河原蒼風は市井にあって、いけばなという商品をいかに売るかを考えていた。その意味で彼は、自意識に捕らわれた近代芸術家と少しも似ていない。彼が状況を捉え、どんどん脱皮していけたのも、彼のスタンスが近代知識人の枠とはまったく別のところにあったからなのだ。
他者を知る工夫とは何だろう。自我が他我との互換性として立ち上がるというのは、知覚という媒介を通して、視点の共有を前提しているのだった。個々人の脳は生得的に相手と自己を同一視するように作られている。しかし、それは、自分が他者と同じであるとか、自己の意識を人間一般として語ることができることを意味しない。意識(脳)=身体が単独の人間に局在され、決してその外を見ることができないことに変わりはない。お互いの知覚の共有性を信じ、その受けとめを伝え合う、それは決して完全に届くことはあり得ない実践だ。ものの作り手は、相手を獲得するために、知覚の全てを動員して自分を説得し、手業を使って作為を施し、商品を介して他者と向き合う。彼が知覚するものと手業の結びあいによって作られたものが、共感として伝わることを願う以外にできることはないのである。
プラトンやヘーゲルのような、身体内部の精神の全体を、神や宇宙、自然と同一視しようとする指向に対して、柄谷行人などが、「外部」を言うのは、他者との交流を、共感のみで考えていくような、楽天的、貴族主義的人間観のめでたさに対してである。また、その自然強制的な力の恐ろしさに対してでもあろう。彼も言うように、商品を売ることは「命がけの飛躍」である。一方、単独性としてある人間は、そのかけがえ無さで、他の人間との入れ替えはできない。どこまでいっても、共感を前提する予定調和は、個々人を全体に回収する装置として働く。柄谷は、「私とは何か」ではなく、「私とは誰か」と問わなければならない、と言う。全体と個という対立軸は、どちらに向かっても一般化されるものであり、「この私」という固有性には届かない。「この私」の問題は、「個性」や「自己主張」とはまったく異なる。「個性」や「自己主張」は、個々人の身体内部に宿る想像力のさまざまなかたちであり、「独創的」であろうと「引用」であろうと、必ず一般化され、全体に回収される。しかし、「この私」あるいは「固有名」はどのようにしても一般化することができない。個々の持つ意識(脳の構造)の一般性にもかかわらず、一人一人の孤独は解決不可能なのである。
単独の知覚が感受する世界に、何らかの交通を願うのは、必然ではあっても神秘主義のそしりは免れない。だが、植物や動物、その他、ものが持つ形や質感、重みなど、知覚はそれら全てに意味を感じ、そこに作為を加えて満足したりする。人はなぜ泥団子を作るのにさえ情熱を傾けるのか。花や虫の音に言葉を聴くのか。ものの形や音のつながりが、共通の情趣を誘うのは何故なのか。個々の知覚を越えた共通感覚が、単に神経系の同質性と脳がそうできていることで生ずるものなのか、それを越えた根拠を持つものなのか。それらは、脳とその意識の解明によっては説明しきれるものではあるまい。しかし、自然や宇宙と自分が共鳴し合っているように感じることだけは止めることができない。
勅使河原蒼風は自分が感受するものを信じ、彼の手業がもたらす形が、世界中で理解可能なことを信じた。蒼風の作品の形は、それまでの西洋の造形芸術とはまったく違っている。西洋の彫刻が作り上げてきた形は、神々の像であり、結果として、統御され、研究され尽くした人体のフォルムが基底にある。いわばそれは、イデアの像なのである。蒼風の形は、例えば、無秩序に伸びた木の根や流木をわずかばかり削り取ったものの連なりであり、花をただ差したような、フォルムも規範もよくわからないフラワーアレンジである。しかし、わたしは、蒼風のいけばなは、それを見た人に通じたと思うのだ。もちろん、単なるジャポニズムやエキゾティズムとしてではなく、また、西洋の「近代芸術」批判としての「現代芸術」という、狭い文脈上でもなく、である。
例えば、宮沢賢治などにも感じるのだが、彼がどんな思想を持ち、どんな宗教的実践をしたかではない。彼は私とはまったく違う感受性で自然と関わっているのに、詩や童話の描写の輝かしさやイメージの確かさが、私を掴んでしまうような気がする。蒼風のいけばなが持つ力も、それと同じようなものだ。おそらく、個体を越えた共通感覚は存在し、それを感受し、受け手に渡していく技がある。彼は生花や文人花の流れの中でいけばなの手ほどきを受け、「自ずから成る」自然観をてこにして、少しずつその対象とする世界を拡大していった。自然や他者との共感というイメージの質が、ステレオタイプ化された対他的な「日本文化」の閉域を離れ、その裏付けや援護を得られない場所に立ったとき、彼は、知覚の地肌に直接触れるような場所を、手探りしていたと思うのである。
第一・二章でも述べた、中村雄二郎の「汎リズム論」は、人の知覚作用の元となるような、知覚レヴェルを越えたところでの、物質振動の波動性と共振が論じられている。彼によれば、「森羅万象は響き」であり、生命現象の根元にリズム振動を置く。こうすると、生命現象は、動植物のレヴェル以外でも、知覚に捉えられるリズムとして、感じられるものとなる。いくら哲学者でもこんなことが論じ得るのか、ほんとうは疑問である。人や動物の知覚、生命活動、自然や宇宙のつながりを憶測しても、誰も肯定も否定もできないだろう。問題が人の大脳のレヴェルなのか、動物一般に共通するレヴェルなのか、あるいは、それをも越えた、宇宙レヴェルでの共振があるのか、それを知ることは困難な技という他ない。しかし、その目に見えない力に導かれて、あらゆるものが現実のかたちを取り、それが受けとめられるのを待っている。たとえ待っていないとしても同じことだ。それに人が気づき、全身で受けとめたならば、森羅万象は生々しい実在として人の意識の内側に入ってくる。
あるかどうかではなく、とにかく実践家はそれに向かい、手応えをものとして、他者にバトンのように手渡していく。「いきもの」が「生きている」と感じられるのは何によるのか? いけばなは飾られるのではなく、なぜ「いけられる」のか? 生命を祭るとはどのようなことなのか? 生命について、またここで抽象的な議論に戻りたくはない。勅使河原蒼風はそれに対して、直観的な答えを出しているが、それは、「テーマ」と呼ばれるような、意識や観念を商品にしたのではない。「あちこちに枝や根を伸ばしていく不定形な植物のかたち」、「巨木」、「渦巻き」、「螺旋の彫刻」、「枝を絡ませ、伸びていく蔓や枝」など、勅使河原蒼風の作品イメージは、「自から成る」や「生命樹」につながる、生きているもののひしめきの中にある。蒼風が祭る形は流動し、全てに生命を感じさせる。蒼風もそれをはっきり宣言している。はじめ木の作品を全て「いのち」と命名し、後に『古事記』連作となったときのイメージもやはり「いのち」であった。蒼風が『古事記』に見出した八百万の神々とは、無数に存在してきたものの生命の表徴そのものなのだ。ものが宿す実にさまざまな生命のかたちは、生成する力の固定されたものであり、受けた生を全うする工夫によって全霊を満たしながら存在している。蒼風は、イデアのような理想の観念から形を割り出すのではなく、その生命的な営みをこそ肯定する。それに共感し、賛辞を贈り、仲介者として取り出し、見る者に見えるようにして差し出す、蒼風がずっと一貫して行ってきたいけばなの実践とはそのようなものだったのである。
うねる立木文様、世界に広がる生命樹の意匠、分岐した枝が作る渦巻き、ペイズリー文様、アラベスク、唐草、さらに絡み合う樹からヘビに繋がる意匠、交尾するヘビ、注連縄、大地から湧き出るこれら豊穣な生命のイメージと、勅使河原蒼風の造形の柱はほとんど同型である。その過剰さが、精神・イデアを柱とする西洋近代の造形原理と異質なことはもはや誰の目にも明らかだろう。蒼風の作品が『古事記』の神々の名前を持つことも、ここまで来れば偶然とは言えない。なぜなら、彼の言う神々とは生命の表徴であり、蒼風の作品の全ては、生命の表徴としてのものだからである。生命としてのものが纏う形が、「いのち」という名を与えられたテクストとして、形を持ち、さまざまなメディアによって幾重にも変奏されていった。勅使河原蒼風の作品群が、いけばなや彫刻、書、絵画という、さまざまなジャンルにまたがりながら、一貫した統一性を持つ理由である。
勅使河原蒼風の遺産は二つある。一つは彼が残した作品群とその記憶だ。彼のいけばなの大半は失われてしまったが、作品写真として残されたいけばなは膨大な数にのぼるだろう。残されたオブジェになまの花材を加えて、再現するような試みも何度もなされている。残った彫刻群や書画は、それだけでも蒼風の面目躍如たるものである。彼が現した造形は全て自然から引き出された生命の表徴であった。『古事記』に従うなら、八百万の神々の像である。私は彼の作品の持っていた、形のユニークさ、「渦巻く生命の祭」とでもいったもののことを言いたいのである。生々しい生命感と、漲るダイナミズム、自然が時折見せるさまざまな様相を巧みに切り出し、息吹を定着していった、その技のことである。
生誕百周年記念の機会を得て、それらが再び美術展で並べられるのは嬉しいことだ。ただ、それが蒼風の作品を見る最後の機会となってしまうようなことは何としても防ぎたい。二〇〇一年、世田谷美術展で「勅使河原蒼風展」が開催され、散発的にマスコミが勅使河原蒼風を取り上げた。とはいっても、今、人々には勅使河原蒼風を知る機会がほとんどない。このまま蒼風は、草月流の創流者として以外には、忘れ去られてしまうのだろうか。彼の死後二十二年が過ぎたわけだが、勅使河原蒼風の作品が持つ意義が理解されるにはもっと歳月が必要なのかも知れない。没後二十五年の企画も必要となるだろう。彼を「日本美術史」の傍系に置くのはいっこうにかまわない。言い訳やアリバイのような美術評論家の発言もどちらでもいい。ただ、残された作品と彼の記憶だけは、何とか保管されて、それを見たい、知りたいと思う者が、いつでも見られるような、万人に開かれた場所ができることを願わずにはいられないのである。
彼はもう一つ、草月流という団体を残した。それは勅使河原宏に受け継がれて、街角や広場でイベントを催し、インスタレーションを立ちあげる。蒼風のいけばな指導は、自身もバウハウスを意識していたように、門人の自発性を認め変化を肯定したことにある。勅使河原宏はそれをさらに開放的なものに変え、共働性による作品制作の方法を加えた。
前にも述べたように、草月は今、竹のインスタレーション、植物素材や、その他さまざまの材料を使った協同製作のトンネル=「花くぐり」「花アベニュー」など、街角や屋外などでの多くのイベントを手がけ、安定した場所から発表の場を移して、いけばなの流動化、方法の変化を模索している。私が所属する草月会愛知県支部でも、今年二月二十七日から三月四日まで、名古屋松坂屋本店マツザカヤホール、オルガン広場で、「蒼空へ」をテーマに、蒼風生誕百周年と勅使河原宏追悼を兼ねたいけばな展を開催する。オルガン広場の開放空間には「多数が参加でき毎日変化していく作品」を配置し、出品者や会員、草月人はもとより、入場者、無料スペース通行者まで巻き込んでいく花展を目指している。わずかだが、勅使河原蒼風の作品やパネルの紹介もする。草月は勅使河原蒼風によって生命を与えられた運動体である。草月の活動によって、彼が先鞭をつけた問いのかたちに、多様に応答している姿が見られるはずだ。
しかし、「いけばな」や「草月流」が、これから先も何かであるためには、こんなことでは無く、本当はもっと思い切った変化が必要だろう。自明のごとくあると思いこんでいるいけばなの世界が、これから先も残っていくと信ずる根拠など少しもありはしない。今その世界が存在するあいだに、実現していくものを見定めていくことが、抜き差しならない問題として浮上している。そのためにも、勅使河原蒼風の作品とその活動が持っていたものが、どのようなものであったかを問うことは、重要な意味を持つと思われる。
私がいけばなの側にいて、この変化を支えていきたいと思うのは、勅使河原蒼風という存在があったからなのである。勅使河原蒼風を記念する足場ができ、彼が、万人にとっての批評の対象として認知され、それが、「いけばな」にとっても幸いとなるような状況を、私は待ち望んでいる。

注及び参考文献

1-習得には免状費用がかかるが、一般に試験などはなく、年数を継続するなどの手順を踏めば、誰でも上級師範者の免状を取ることができる。
2-『日本人の美意識とアマチュアリズム』『いけばな批評』第28号、王立出版社、一九七六年
3-柄谷行人『批評とポストモダン』福武書店、一九八五年など
4-柄谷行人『言葉と悲劇』第三文明社、一九八九年など
5-草壁久四郎『戦後日本映画を方向づけた活動』その他『草月』257号、草月出版、二〇〇一年
6-奈良義巳『新しいカルチュア・シーンを生み出した』『草月』257号、草月出版、二〇〇一年
7-磯崎新『勅使河原宏は『座』の表現者だった』草月257号、草月出版、二〇〇一年
8-実はこの本はその時から少しずつ書きためたものをもとにしている。生前に見ていただくことができず、たいへん残念だったが、このことが私が考えをまとめていくきっかけになった。宏家元にあらためて感謝申し上げたい。
9-中原佑介『勅使河原宏とは何者だったのか』草月257号、草月出版
10-勅使河原宏『草月カリキュラム』草月出版、一九八四年
11-秋津伶『エセ・ロマンティック』ゾーオン社、一九九八年
12-第二章(注)5 二つの他我論70ページ
13-もともとはクリプキ著『ウィトゲンシュタインのパラドクス』産業図書、二〇〇〇年。その中に出てくる言葉。「言語による他者の交流は文法があるのではなく、一瞬一瞬が伝わるか伝わらないかの『命がけの飛躍』」。
14-第一章(注)3 不定形の形態 26ページ

あとがき

勅使河原蒼風はおそらく理屈は好まない。当時のいけばな作家で、彼ほど「近・現代芸術」の扱う「自意識」のテーマから遠かった人も少なかっただろう。彼には議論よりもたくさん、やるべきことがあった。しかし、私はこの本で、多くの論議をした。蒼風のような実践家にとって、こうした議論がほんとうは不要なことはわかっている。それでも、現代の「日本」という状況の中で、少しも問題が整理されないままに、成りゆきで全てが処理され、忘れられていくことがいいとは思われなかった。
こうした議論がすこぶる観念的で、しかも、私の手に余ることは百も承知している。だが、状況を整理し、ものの造り手としての勅使河原蒼風の位置を確認することが、私にとっては必要なことだった。まえがきにも書いたように、さいわい今、多くのことが疑われ、「日本近代芸術」の存在基盤も、その歴史も、再審されそうな機運がある。これを中途半端に終わらせないためには、いけばなという、不確定な場所からの発言も、あっていいのではないかと思われた。多少の意義が認められれば嬉しく思う。これが呼び水となって、多くの優れた論議が展開されることを望む。
本書は私が以前から少しずつ書きつづってきた論をもとに、新たに書き足したものを加え、あらためて全体を通して書きあらためたものである。この本では、勅使河原蒼風の作品の細部や技法の問題、個々の作品が持つであろう意義や意味などは、まったく論じていない。私はその任に耐えないし、いずれしかるべき人がするだろう。ここで私がしたかったことは、西洋が築き上げた「近代芸術」という制度とは違うところで、イデア=精神ではなく、「生命」を祭るという表現の方法があって、それをした人がいる。それもなかなかいいものなのだ、という一般論に過ぎない。しかし、こうしたことをするにも、いろいろな交通整理が必要な気がして、専門でもない哲学談義にまで及んでしまい、読者を含む多くの人々にご迷惑をおかけする結果となった。これを書くにあたって全体構想はできていたが、古い部分と、今回新たに書き加えた部分とに思考の揺れが生じているかも知れない。論旨の不明瞭な点や誤りがあれば、ひとえに私の不勉強のせいである。不慣れで読みづらい文章になったことと合わせて、読者の方々にお詫びしたいと思う。
今、私がほんとうに望んでいることは、こういう議論ではなく、いけばなの実践的な場面を豊かにすることである。本文でも述べたように、今年二月、私の所属する草月会愛知県支部は、蒼風生誕百周年記念・勅使河原宏追悼の「草月いけばな展」を開催する。言い訳めくが、花展が間近に迫り、気が気でない折りに上梓した。準備不足は否めないが、ちょうどよい機会で、また次の機会が望めるわけでもないので、思い切って進めることにしたのである。お世話になった方々、お手数をおかけした方々に心よりお礼申し上げる。  二〇〇二年一月

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