陶器と磁器・絵付けの技法



製作者から見た、陶磁工芸、美術について
(フェリシア講義録1)講義録2. 3  →ceramics sitemap
(フィニシングスクール・フェリシア1989年10月5日講義録)
contents|自己紹介|陶器と磁器|焼成|粘土|ガラス化|磁器の特徴|釉薬|磁器化|
|
ストーンウェア|青花、染付け|釉裏紅、釉裏五彩|下絵|洋絵の具|上絵|和絵の具|
|
「陶芸」という言葉|「和洋」とは|言葉と文化|文化のあり方の違い|
|
西欧人は紅茶碗をどのように扱ってきたか|

(1)陶器と磁器・絵付けの技法

1.自己紹介

今日はいちおう導入ということで、自己紹介と製作者から見た陶磁工芸、美術などについて考えていることをお話することにしています。
私が何をやってきたかといいますと、青磁(せいじ)や掻き落とし(かきおとし)といった仕事もしてますが、おもに白磁染め付け(そめつけ)や色絵つけ(いろえつけ)した磁器を作る仕事をしております。
しかし、じつは私はロクロ師で、ロクロをひくのが専門です。もちろんロクロだけではなくて、打ち込み手びねりなども含めた形の方の担当です。絵は誰が描くのかといいますと私の妻が描く、夫婦で要領よく仕事をしております。

2.陶器と磁器 

●焼成
陶器を作る仕事を始めて、いちばんよく聞かれることは「陶器と磁器はどこが違うんですか?」ということです。粘土を焼成していきますと、まず最初は、その中に含まれてる水分が蒸発して無くなっていきます。さらに温度が上がっていきますと、化学反応が起きるわけです。

●粘土
粘土というのは、珪素の酸化物とアルミニウムの酸化物の化合物です。それだけではなくて、アルカリとかカルシウムみたいなものを含んでいますし、粘土の結晶の状態の中には結晶水といって粘土と化合した水も含まれています。

●ガラス化
水分の蒸発が終りますと、今度は結晶にくっついていた水が、反応で無くなっていき、その結晶は、他のものに変わります。そうしていろいろな結晶ができていきますが、その間に、ガラス化ということも起きるんです。
ガラスというのは何かといいますと、結晶でも液体でもないという状態です。だから、ガラス状態といいます。昔は「過冷却液体」なんていったこともあります。たとえば水飴は冷やすと固くて暖めていくとドロッとなりますね。ドロップなんかけっこう固いので、平らにのばせば、窓ガラスでもできそうです。冷やした飴はガラスに似てるでしょう。でもあれは液体です。飴やガラスを暖めていくと、だんだんネバネバになって最後は水のようになる。ところが、氷を暖めるといきなり水になってネバネバの状態がありません。だから、普通、固体と液体は程度の差ではなくて境目があります。ガラスはその中間物なんです。

●磁器の特徴
そうなりますと、磁器の特徴が出てきます。まず陶器のように隙間がありませんから、吸水性がありません。そして、叩くと清音がします。つまり、ものが一体化した状態になると音が澄んでくる、逆に陶器の場合には隙間があって一枚板といえないから鈍い音がします。
それから、たとえば紙に油を塗ると透明になる、あるいは硫酸紙なんかでも、紙の繊維の一部が溶けて隙間をうめると透けてくる。磁器も同じで、透明感が出てきます。
磁器は無色だという言い方をよくします。白いということですね。でも色をつければ有色の磁器もできます。ただ磁器では白いということも条件になっています。これはいくつかの理由がありますけれども、磁器という観念が本当の意味で生まれたのはヨーロッパですね。日本人や中国人は、ヨーロッパ人が考えるようには磁器を考えていなかった、ヨーロッパ人は磁器を貴重視して、その中に白いということを入れたんです。

●釉薬(うわぐすり)
ついでに言っておきますと、ふつう陶磁器の表面は、(うわぐすり)と呼ばれる光沢した皮膜がおおっていますが、あれもガラスです。

●磁器化
粘土は結晶ですが、その粉の塊の中に、ガラスの液体部分ができて、固体の粉を、ちょうど糊のようにくっつけていきます。ところがそれをどんどんやっていきますとガラスの部分がすっかり覆うようになって粘土の間の隙間がふさがってしまいます。
こうして隙間が完全になくなった状態、それが磁器なんだと考えていただければとりあえずいいわけです。 
 

●(ストーンウェア)
それだけではなくて、磁器化するためには、鉄分を含んでいてはいけません。鉄は酸化物として、土の中に入ってます。そして、粘土が赤や黄、グレー、緑っぽい色をしているのは、ほとんど鉄の色です。
鉄が粘土に入って いますと、低い温度でやわらかくなってへたってしまいます。常滑の土なんかがそうです。それで低い温度で焼きます。あれは磁器といいません。ところが吸水性がない、そういうものを最近は(せっき)(ストーンウェア)といいます。
(せっき)という言葉は日本にはありませんでした。ヨーロッパのストーンウェアという観念を日本語にそのまま訳したんです。最近では陶磁器の世界には、陶器と磁器と(せっき)などがあるというような言い方をしますけれども、そういう言い方は日本人の見方からするとおかしいんです。陶器と磁器の話はこれでおしまいです。

3.絵付けの技法

●青花(染付け)
青花(せいか)釉裏紅(ゆうりこう)釉裏五彩(ゆうりごさい)というのは、私達のところでやっている絵付けの仕事です。青花は中国の呼び名 で日本では「染付け」(そめつけ)といいますが、これは白い磁器のうわぐすりの下に、藍色の絵の具で絵付けがしてあるものです。

●釉裏紅、釉裏五彩
藍の絵の具でなくて、銅を含む絵の具で描いて赤を出す場合があります。それを釉裏紅といいます。釉裏五彩は、染付け・釉裏紅の、藍と赤の他 に、緑や黄色、茶色っぽい鉄の色が使ってあります。ただし、三彩、五彩という言い方は昔からあって五種類以上の色を使っても五彩といいます。

●下絵(釉裏技法)
釉裏五彩とか釉裏彩(ゆうりさい)という言い方を私達はよく使ってますが、これは昔からあった言葉ではなくて、古い技法の延長上の呼び名として、私が勝手に組み合わせたものです。
使い方に問題はありませんし、私が宣伝しているので、これから定着していくと思います。 釉裏というのは、釉薬よりも奥の素地の上に絵を付けます。これは「下絵」(したえ)とも言って、まず素焼きという低い温度で焼いた素地の上に絵付けをして、その上にうわぐすりをつけて焼いています。

洋絵の具
陶磁器の絵付けの絵の具には、洋絵の具和絵の具があります。洋絵の具は不透明で、和絵の具は透明です。どういうことかというと、洋絵の具は、ペンキなんかと同じように、油のような溶剤(この場合には、溶剤が油でなくてガラスですが)、そこに顔料の粉が混ざった状態のものです。だから、比較的ハーフトーンになったり、そうでない 場合にも不透明なペンキのような色が出ます。

●「上絵」
上絵というのは、いったんうわぐすりをかけて磁器の温度まで焼き上げてからその上に低い温度で熔ける絵の具で描いて、だいたい七〜八百度の温度で焼き付ける、それが上絵です。上絵と下絵では色合も雰囲気もずいぶん違います。

和絵の具
和絵の具というのは、金属溶液のようなもので、色のついたガラスです。だから、よく見ますと透明感があります。本当は、上絵の赤とか黄色は、透明な絵の具ができなかったのでしかたなく不透明なものを使ってまいす。でも、できるかぎり透明に見せようという努力があります。というわけで、和絵の具は透明な絵の具です。

(2)文化のあり方、「和洋」とは

1.「陶芸」という言葉

フェリシアの講師紹介で、私のことを「陶芸家」として紹介してあります。もちろんそれでいいわけですが、この「陶芸」という言葉は加藤陶九郎が作りました。「工芸」という言葉も明治になってからヨーロッパの概念が移入されて翻訳によって生れた言葉です。それ と陶器という言葉を組み合わせて彼が作りました。私はこの言葉を使っていません。

2.「和洋」とは

それと、カリキュラムでは、『陶磁器(和洋)の知識』ということを話すことになっているようです。
「和洋」といいますと、「和」というのは、日本で「洋」は普通ヨーロッパを指します。もちろん世界というイメージもあります。日本人は、明治以降、和洋というようですが、江戸時代は「和漢」といいました。これで全世界が象徴されていますね。
フェリシアの講義のカリキュラムをいろいろ見てましても、だいたい「和洋」という観念でできています。ところがいったい和洋だろうか?どうも世界はそうではないないんではないか、ということがあります。
いっぱんに二項対立ということで、一つのものは独立であるのではなくて、必ず対立するものがあって出てきます。たとえば大きいといえば小さいが対応するようなことです。明治以降の日本の文化の構造の中では、日本対世界(ヨーロッパ)という対応の仕方ですね。それはもっと言うと、日本が「特殊」であり、世界(ヨーロッパ)が 「一般」であるという対応でもあります。そういう中 で「和洋」という言い方をしてしまうと、いろいろ問題があります。
たとえば料理で「洋食」と「和食」という対立ができますと、それが料理の全てということになって、食器も、和食器、洋食器を扱うと全部網羅したことになります。でもよく考えてみるとそういう感覚はどことなく便宜的ですね。

3.言葉と文化

「ことばと文化」(鈴木孝夫著)という本の始めにこんな話がのっていて、ちょっとくすぐるところがあります。
日本の食事は主食とおかずがある、洋食屋に行くとライスにするかパンにするか聞かれます。日本語でライスとご飯は区別されていて、洋食屋で皿に載ってくるのがライスです。しかし、注目すべきことは洋食屋に行ってるにもかかわらず、ライスは洋食の「おかず」を食べながら食べてるんです。つまり洋食は、和洋の対立の中では、世界を意味していますが、中身は日本の文化のあり方と同じです。
ところがどうもヨーロッパでは、主食というものがあってもそれは日本とは観念が違う、食事は出されたものから順番に食べて行きます。そんなことがまず書 いてあります。
その後に「こわす」のたとえ話が出てきて、言葉というのは言語の違いによってひじょうに各国語で違う。言葉というのは、たとえて言えばそれぞれの文化で一つの織物のような構造として使われて行く。つまり、隣り合った言葉との対応関係の連なりの中で言葉という意味の織物に出来上がって行く、などということが書かれています。
でもこれは言葉だけではなくて文化全般がそうです。全体像としてそういうものを捉えていった方が面白いのではないか。陶器もそういう文化として捉えて行った方が面白いのです。
その場合に、これは和洋の比較なんていう問題ではなくて、自分以外のものとの接触なんです。最近よく国際化などといわれますが、問題なのは「和洋」というようなかたちで国際化するのは具合が悪い。自分以外のものを見て行く。他者を知るということで す。そういう接し方をして行った方が、日本という文化を相対化できる。外から自分の文化を見られます。
日本の陶器も全部、他者との接触の中で生れてきたものです。最初、陶器を作りだす過程で大陸、中国や朝鮮から学んでいます。それからヨーロッパからも学びました。その間に日本化ということもおきています。そういうのが複雑に絡んで、日本の陶磁器が生れました。

4.文化のあり方の違い

先ほどの「ことばと文化」の本の続きで、隠れた文化という話があります。見える文化というのは分かりやすいのですぐ見えてしまいます。日本人は箸を使う、ヨーロッパ人はナイフとフォークを使う。こんなことは誰でも分かります。
ところでスプーンは日本人も使います。このスプーンの使い方が、日本人と西洋人は違うということが書いてあります。
ヨーロッパ人はスプーンを口に向けて縦に持ってきて少しスプーンを口に入れて飲み込むように使う。スプーンをしゃぶるようにして飲むわけです。日本的に考えますとこれは下品です。ところがこれにはとりえがあって、口の中に流し込めますから音がしません。日本人にしたら、食器をなめたと感じるかもしれません。ヨーロッパ人にすれば回りに音を立てなかったから品がよかったことになります。
日本人はどうするかというと、スプーンを横に構えて、吸い物風にすするんです。西欧料理のマナーになれた人でも少し古い世代は音を立てる人が多いです。私は音を立てません。それはこの本を読んでるからです。でもこれは見方の問題です。大事なことは、マナーを覚えて人をバカに するんじゃなくて、そういうことを全部含めて寛容さを身につけることが国際理解じゃないかと思います。
日本人が音を立てることが国際マナーを知らないことだと行って糾弾するヨーロッパ人がいるとしたら、その人はやはり村的な考えを持ってるんです。 ヨーロッパだって文化の物差ではありません。ヨーロッパという閉じられた織物になっていて、これ自体は日本という文化と同じです。だから、ヨーロッパを習ったから世界を習ったわけではありません。
ということで、文化を知るというのは恥をかかないためではなくて、自分の住んでる世界を相対化することに意味があるんじゃないかと思います。何かを尺度にすること自体が閉鎖性だと気付くことが異文化および自文化の理解だというわけです。

5.西欧人は紅茶碗をどのように扱ってきたか

だいぶずれてしまいましたが、これに付随する話です。
今日私は紅茶碗を持ってきました。これには理由があります。日本人はわりと紅茶碗の取っ手に人差し指を通して持つ人が多いんです。テレビのコマーシャルや洋画を見てますとヨーロッパ人は取っ手をつまみます。私のこの紅茶碗はつまむようにできていますので指を通すことは困難です。それで時には苦情が出ます。紅茶碗には受け皿があります。深い方の皿はイギリスのロイヤルアルバート製で、浅い方は私が作ったものです。でも私の皿も高台は少し上がっていて皿が持ち上がっています。これはいちおう洋食器の常識に従ったからです。ヨーロッパ人は受け皿に手を入れて持ち上げます。
因みに、これはまた付録の話ですが、ヨーロッパ圏の文化のところに行きますと食事の時にうかつに皿なんかをひょいと持って食べようものなら「あいつは何だ」ということになりかねません。つまり皿は持ってはいけないんですね。それなのにティーカップの皿は持つんです。それでこの皿は手が入るように高くなっています。
日本の陶器屋は平べったい受け皿を作る人がいますが指を入れて持ちにくいので、そうする人にとっては具合が悪いのです。
ところがもう一つあります。私は「大草原の小さな家」というテレビドラマの原作を読みました。そうしたら面白いことが書いてありました。ローラの親たちはティーカップの紅茶を受け皿に移して飲むんですよ。知ってましたか?これを彼らは中国人に習ったといってます。中国でそんな飲み方をするんでしょうか。(註)
ところがローラたちは教育を受けたんです。つまり町に出て新しい知識を身につけるわけです。どうなったかというと「そういうのはおかしい、やぼったい行為だ」と彼女らは考えた、それで「町ではこうやって飲むんだ」と言ってティーカップを直接口に持っていくんです。 するとローラの母親が「これはわれわれの先祖が中国で教えられた正式な飲み方だ、おまえらの方が間違ってる」と 言います。
だからこのロイヤルアルバートの受け皿は深いんですよ。文化の違いというのは、そんな感じだということがありまして、まあそんな話ですが、今日はこれで終りましょうか。

注及び☆読書案内

(註)最近「なるほど・ザ・ワールド」で、スリランカの現在の習慣として紹介されたようです。

「ことばと文化」鈴木孝夫著…岩波新書878
「文化のフェティシズム」丸山圭三郎著…勁草書房

ページ頭に戻るhead↑