勅使河原蒼風の作品イメージ(広瀬典丈)




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目眩めく生命の祭-勅使河原蒼風の世界1 →2 →3
Paper of Ikebana (Michtake Hirose ) →4 →5
(広瀬典丈)
エディット・パルク(2002年2月20日発行)
 ウ617-0822 京都府長岡京市八条丘2-4-14-506
 TEL075-955-8502
○定価 1,600円+税 ご注文は、書店、出版社、私たちに直接でも結構です。(ISBN4-901188-01-1)
ぜひ、図書館でのリクエストもお願いいたします。

(1)勅使河原蒼風の作品イメージ

   

Contents_まえがき (1)勅使河原蒼風の作品イメージ
1勅使河原蒼風論のモチーフ 2勅使河原蒼風とアンフォルメル 3不定形の形態
4身体と宇宙を結ぶ呪術 5述語文で現される世界 6かたちとリズム
(2)草月流と「近代芸術」 (3)いけばなの成立と近代いけばな
(4)勅使河原蒼風のいけばな (5)勅使河原蒼風の彼方 あとがき

まえがき

一九七九年九月五日勅使河原蒼風は七十八歳で死去した。その直後に出版された『小さないけばな 勅使河原霞作品集』(注1)は、春夏秋冬四冊よりなる勅使河原霞以下十三名の出色の作品集である。逆説的だが、草月という団体を通じて、勅使河原蒼風がいけばなにもたらした精華があふれている。それは、いけばなの魅力を知りたい人に、私が最初に見せたい本である。蒼風という大きな存在を意識しながらいけばなに向かっていた草月人の気構えが感じられて、心動くのである。もちろん勅使河原蒼風の創作活動は、それだけで語り尽くせるようなものではないが、蒼風自身の作品集や『小さないけばな』などを、その頃までの他のいけばなの写真集と一緒に、時代順に並べてみると、それだけでも、蒼風が、それまであったいけばなの世界をどれほど豊かなものに変えていったか、いけばなの世界にとって、どれほどかけがえのない存在であったかがわかる。
生前の勅使河原蒼風の存在と、その活動について知る人なら、彼が他の追随を許さない大きなスケールの創造者であったことについて、おそらく誰も疑いを持たないだろう。蒼風をよく知る亀倉雄策や土門拳が、蒼風に対する弔辞の中で義憤とともに語っているように(注2)、残念ながら、「日本の芸術界」は、まともに彼を評価することができなかった。公的な権威を素朴に信ずる、亀倉雄策、土門拳らが、蒼風に対する社会評価に怒るのはもっともである。勅使河原蒼風は、「日本の固有文化・いけばな」の宗匠として、日本政府の外交接待や、日本を代表する文化行事にうまく使われてはいた。しかし、いけばなは、西洋近代起源の文化範疇から生まれた「美術」の埒外にあった。勅使河原蒼風は、「美術」への位置づけが困難であるという、おそらくそれだけの理由で、国家的な栄光の多くを受けることができず、社会的な評価もじゅうぶんなものとならなかったのである。最近「美術」ないしは「日本美術」という制度的な枠組みそのものを再考するような研究が行われるようになり(注3)、さまざまな概念に揺らぎが生じてきている。そんな中で、世田谷美術館の学芸部長である勅使河原純(勅使河原蒼風の親族ではなく、姓は偶然の一致)による蒼風論『花のピカソと呼ばれ』(注4)が発刊されたのも、そうした大きな流れがあってのことだろう。
一昨年来草月流では、勅使河原蒼風の生誕百年を冠して、蒼風紹介の記念行事を組んでいる。一流派の宣伝キャンペーンで終わるには、蒼風の存在は大き過ぎる。この論は、勅使河原蒼風の再評価を願う、草月一員としての、内側からのささやかなエールを送りたいとの思いで書き進めていたものである。
しかし、蒼風生誕百年キャンペーンの中で、今度は勅使河原宏・草月流三代家元の死去という事態がおきた。草月流にとって勅使河原宏も、勅使河原蒼風に比べて重要な存在であったことに何らかわりはない。思えば、勅使河原蒼風の、戦後の旺盛で革命的ないけばな活動自体が、勅使河原宏の影響を欠かせない要素として成立したのである。当時彼は、東京芸大出の画学生として、雑誌「草月」と草月会館を舞台に、欧米芸術の新しい流れ、「現代芸術」の紹介者としての役割を担っていた。その後の草月内外での多方面の活動の中で、彼は一貫して芸術のアヴァンギャルドを支持し、いけばなに対しても新しい流れを後押しする立場を崩さなかった。それが勅使河原蒼風の戦後の活動を支え、草月流のいけばなにはっきりとしたポリシーを与えた。その理念とは次のようなものである。

いけばなというものを
固定したものに考えない。
どんどん流動していくものである。
いけばなにかたちを与えてはいけない。
いけばなはその時代時代に
かたちを新たに持つものである。
勅使河原宏

今私は草月の中にいる。父母も草月人だったので、少年時代、家には雑誌『いけばな草月』があり、毎日のように勅使河原蒼風の話題が溢れていた。雑誌『いけばな草月』には、蒼風の愛娘、二代家元勅使河原霞や、雑誌『草月』の若く溌剌とした編集者、勅使河原宏の姿も映し出されている。歳月は流れて、勅使河原蒼風、勅使河原霞、三代家元勅使河原宏もこの世にない。
いけばなは古典的な意味での「芸術」のように、時間を越えることができない。いけられた花は、遅くとも数日でその生命を失っていくものである。花展会場やデモンストレーションの場を体験した者だけしか共有できない世界である。だから勅使河原蒼風のパフォーマンスも、今は伝説の出来事となり、思い出の彼方に遠ざかってしまった。
勅使河原蒼風の洗礼下で成長した者として、蒼風論を書くことは私の存在確認の作業でもある。そして、勅使河原蒼風のもっともよき理解者であり、いけばな変革という大きな流れを共有し、押し進めた活動家、勅使河原宏草月流三代家元に、心からの敬意と哀悼の意を表明し、ご冥福をお祈りしたいと思う。

二〇〇二年一月

1 勅使河原蒼風論のモチーフ

まず論の初めに大まかなモチーフを示しておこう。
勅使河原蒼風の創り出した作品群は、巨木や植物の量塊的なフォルム、枝やつるを延ばしたり絡ませたりする動き、書画における運筆や墨滴の荒々しさなど、いずれも生命力が溢れている。枝を矯め、木に穴を穿ち、渦巻きを彫る。生の過剰をそのまま取り込んだようなそのかたちに、私は、自然の生命力の横溢とその働く場のイメージを見る。蒼風には、西洋現代芸術のオブジェをいけばなの世界に導き入れたという、モダンな側面の一方で、太古から連綿とつながる大地や森の信仰、万物に宿るアニマを祭る、祭司のような感受性と宇宙観があるのだ。
勅使河原蒼風は、いけばな界からは異端と見なされ、生前からその作品は、造形彫刻との関連で論議されることが多かった。蒼風自身もそのことをなかば肯定していた。しかし、美術界にあって、蒼風の造形の受け入れには、その支持者にすらいささかの当惑が伴っていたし、蒼風の造形美術界での評価を、現在も不安定にしている原因の一つに、その違和感があることも確かである。一方、激しい抵抗を受けたいけばな界での評価は、すでに生前絶対的なものになっていて、現在も揺るぎがない。蒼風の掲げたいけばなの方法のほとんどが、今では大半のいけばな流派に受け入れられ、異端どころか主流に収まっている。どうしてそのようなことになっているのか。それを理解するためには、西洋近代を支える枠組みの中で、どのようにして造形芸術という概念が成立しているのか、それがまた、いけばなという概念を支える枠組みとどう違うのか、という視点が、不可欠であるように思われる。その上で、勅使河原蒼風の作品が持つ不思議な力とその源泉に近づこうと考えるのである。

2 勅使河原蒼風とアンフォルメル

一九五七年、ブリヂストン美術館で「世界・現代芸術展」が開催された。それは、当時、「アンフォルメル」の命名者で、世界の芸術の最前線にあって、むしろ西洋の「芸術」の限界を越え、その再構成をもくろもうとするフランスの批評家、ミシェル・タピエの主導で行われたものであった。タピエは造形に「不定形」を導入することで、「芸術」に新しい豊かさが加えられると主張し、世界各地で「アンフォルメル」芸術を紹介していた。勅使河原蒼風はその展示会で日本を代表する、「アンフォルメル」の芸術家として紹介されたのである。
まず冒頭にそのタピエの証言を聴きながら、同展でも紹介された、蒼風の木彫を見ることから始めよう。その下の写真は、タピエと知り合うきっかけとなった、パリ・バガテル宮殿個展の小品である。

 これほど明らかに示された創造の力の前では、もはや細部の質についてうんぬんする必要はない、各人がそれぞれもっとも容易に感受しうるひとつないし幾つかの作品を径として、勅使河原蒼風の世界に入りこめばよい、その門をくぐりさえすれば、人は一挙に全作品と通じてしまう、ということである。まごうべくもないほんものの、そして絶えることない創造の総体というこの大きな運動を前にしながら、あれこれの特殊な一作品をとりあげ、あれこれの観点を批評するというのは、けち臭い態度だといわねばならぬだろう。そしてそのような批評は、批評する者自身の度量のまずしさを暴露するものとして、ただちに彼の面上に落ちかえってくるであろう。
……部分的に金属をかぶせた最近の木彫のなかに、彼は魔術的・汎心論的な強烈な放射力をもった構造、フォルムがありながら同時に空間性のゆたかな構造を決定している。空間のなかにひろがる世界(空間性)と、大地の地底から生れでたようなその実体(根元的実在感)との間の対位、ほとんど有機的でさえある連続性  それらがこぞってここに「完全」作品をつくりあげているのだ。新しい叡知にまで高まった力動的な清澄さというものをそれは伝えている。勅使河原の作品に助けられて、われわれは、この「別な」時代のまさに根本的与件である混沌の充溢を喜びつつ、その新しい叡知へと到達するのである。(『或る邂逅』ミシェル・タピエ、芳賀徹訳)(注1)

〈樹獣〉は表面の一部を真鍮板で覆い、先端を尖らせた木の根を組み合わせたもので、木の根が持つ自然の動きそのままを巧みに生かした、いけばなの延長線上の構成である。それは当時の人間中心主義の造形作家にとっては躓きの石であった。本来人が美しいと感じるものに、芸術と呼ばれる人工物であろうと、自然物であろうと、区別などはないが、西洋的な造形彫刻家にとって、材料に過ぎない木が自然のまま露出し、作品の意味を担うことは人間と自然との癒合であり、芸術とは呼べなかった。彫刻家にとって、メディアであり主体ではない木の根が自己主張し、生命感を謳歌するのは、自然美としては許されても、芸術家の製作物とは認められないのである。
しかし、西洋芸術の限界を語るタピエにとって、それこそが蒼風の新しさであった。タピエが「まごうべくもないほんもの」と語るのは、彼にとって異文化である蒼風作品に、「近代芸術」の枠組みを変えようとする、彼の「別の芸術」(Un art autre)理論の支えを見たからに違いない。彼はそこで、未経験のものへの素直な驚きと、その根元性に対する確信を表明しているのだ。
勅使河原蒼風が、パリの今井俊満やタピエなどアンフォルメルと遭遇したのは、一九五二年のニューヨーク個展・デモンストレーションについで、一九五五年、パリ・バガテル宮殿での個展の成功がきっかけだった。『ル・フィガロ』『ル・モンド』『レットル・フランセーズ』『ヌーベル・リテレール』などの新聞が取り上げ、『タイム』は蒼風を「花のピカソ」と命名した。帰国後にはフランスの美術雑誌『オージュルデュイ』、イタリアの『ドムス』が、あいついで特集を組んでいる。(注2)ジャーナリスト達は、勅使河原蒼風を、日本のいけばなという伝統を基盤に持つ、「現代芸術」の旗手と見たのである。
一九五九年、タピエの紹介による勅使河原蒼風個展が、ニューヨーク、トリノ、パリ、バルセロナで行われた。その後も各地で個展・デモンストレーションが開催され、蒼風の木彫が世界各地の美術館に収蔵されるようになる。フランス政府は、勅使河原蒼風に対して一九六〇年、オルドル・デザール・エ・デ・レットル章、翌一九六一年には、レジオン・ド・ヌール・シュバリエ章を贈った。まさに絶頂期である。
海外での評価を受けて国内でも、一九六一年、日本政府は芸術選奨を贈る。一九六三年に開催された七年ぶりの蒼風個展は、その海外での高い評価と、ほとんどが木彫中心の彫刻的な内容であったこともあって、多くの美術批評家に取り上げられた。評論家の多くは、勅使河原蒼風が、いけばなから彫刻に転進したものと見なし、そこに評価軸を置いた。さらに、一九六七年、「勅使河原蒼風の彫刻」展が京都国立近代美術館で開催される。一九七〇年大阪万国博では、万博美術館の中庭・野外展示場に、高さ一〇メートル、床面積四メートル四方、重さ二〇トンの大作が出品された。伊勢神宮の神木〈鏡〉と呼ばれていた楠の倒木によるものだ。彼は、「万国博は現代世界の様相を一堂に写す鏡の祭り」だとして、この作品を〈神鏡〉と命名した。(注3)
しかし、一九七〇年、皮肉にも勅使河原蒼風が脱税容疑で国税庁の査察を受けたこの年は、一九五〇年代から六〇年代にかけての、「現代芸術」の熱気がピークを越えて、自己崩壊する指標の年でもあった。第十回東京ビエンナーレや大阪万博をめぐって「美術」という制度は臨界点を越え、対抗する「反芸術」もろとも急速に影響力をなくしていく。(注4)勅使河原蒼風の社会へのインパクトも、それとパラレルに失われていった。
すでに見たように、勅使河原蒼風の作品と、彼のいけばな活動の優れた独創性を、タピエをはじめとする西洋知識人が評価したのは、西洋の造形理論や個人主義的芸術観を、日本の芸術運動やいけばな界に移入したからではない。逆に、蒼風は西洋の知性を圧倒するような生命感の漲るその造形によって、彼らに芸術の新しい可能性を示唆したのである。
蒼風には、目に見、手に触れた花や自然を感受し、絶妙な技の冴えによってそれを組み合わせ、かたちにまとめていく力があった。人を引きつけ、ものの不思議を見る者に突きつける術も知っていた。蒼風の演出は、作品から花展会場、作品制作過程を裏いけなどで紹介するデモンストレーションのパフォーマンス化、といった場の演出にまで拡大した。それら全体の発展過程の幅に、彼の書、絵画、オブジェ、レリーフ、モビールなどの作品も、位置づけることができる。蒼風の制作態度は、自然の中から自ずと湧き出る言葉を聞き、彼の身体感覚と草木との共鳴を通して、まとめあげる独特の技巧、草木の表情の、ある瞬間を舞台の上に定着する工夫なのである。彼はそれを「花の言葉」「花体」などという語を用いながらとても素直に表明しているので、その言葉を虚心で聴くことにしたい。

いろいろの花がいろいろの言葉で語りかけてくる。
木の枝、花というよりも、植物といわねばならないだろうか。草の花、木の花、草の実、木の実、蔓、葉、そして枯れ木。いけばなの道に入った人たちはあまりにも花に言葉が感じられて、感慨を深くするにちがいない。
なんにも言わない花にいくらでも言葉があって、人は花といろいろな話を交している。そんな状態がいけばなの世界なのだ。いつも素直な心で花に向かわなければ、花の言葉を聞くことはできない。大いにひろびろとした心で花に向かうことだ。

花を人のように考える。そこに日本人独特の考えがある。花をいけてできあがったものを花体という言葉で呼んだり、花形といったりするのは、やはり人間と同じように見ているからなので、内容はむろんであるが外形も人の姿のように花の姿を見ようとし、花にも人と同じ心があり、同じように姿をつくるもの、というように考えて扱っているのである。

いけばなは、自然と人間とがぐっと近づく仕事である。これほど自然と人間とが近くなれる仕事はないと思う。自然と人が和した絶頂の、そしてその境地のいちばん明瞭な姿がいけばなである。(勅使河原蒼風『花伝書』)(注5)

3 不定形の形態

勅使河原蒼風が持つイメージとはいったい何か。彼の表現方法はきわめて多様であり、ゆうにいけばなという枠組みを越えていたが、蒼風はあらゆる作品の形態上の違いや形式の差異を越えて、勅使河原蒼風独自の世界を作り出している。その人らしさや個性といった程度のことではない。エリアーデ流に言うなら「カオスに形態と規範を与え世界をうち立てた」(注6)という意味において、勅使河原蒼風は、自分独自のモード(様式)でその作品を生み出すことのできた、数少ない作家の一人だったと考えられるのである。
「日本語」のような母音の響きを基幹とする音節を母語に持つ人々は、虫や鳥が鳴き、草木がこと問う音を言語と同じ脳で聴き取るという主張がある。真偽も怪しいし、このことが、自然との関係を作るのに、どれほどの影響力を持つものか、私にはわからない。しかし、いけばなは、自然の発する音や形のざわめきの中で経験する、自然の言葉への応答だという感じがする。それは自然と共鳴することで生ずる、生命の力といっていい何かである。神々の住処である森や大地と、そこに育まれるもののひしめき、そのざわざわした音の交差を通して、出来事が浮かび上がってくる場がある。 
一九六三年の個展の頃から、勅使河原蒼風はオブジェ彫刻を『古事記連作』として発表するようになった。『古事記』の物語に主題をとったというわけではない。本人は、それに特別な意味賦与することをむしろ避けている。しかし、『古事記』のかもし出す古代的なイメージと、伊勢湾台風の後、伊勢神宮から提供された巨木に息づく生命の躍動感が重ね合わされたという点は、間違いのないところだろう。

この前の個展から彫刻には全部「いのち」とつけることにして、いくつできても連作として進めてみたのだが、一つの題名というのは不便で、あの背の高いのとか、太い曲ったのとか、とんがっているのとか、やっかいなことが多い。
もともと題名はつけなくてもいい、とおもうのが本音なので、かといってよく人がやっているようにNO(ナンバー)式というのはどうも好かないので連作式をとったのだった。なんとかせねばとおもっているうちに、ふとおもいついたのが、わが愛好の書『古事記』の利用で、そもそも「いのち」というのが古事記からとった名なのだが「いのち」連作のうち「おろち」とか「いわと」「あめつち」「やくも」「たかちほ」「わらべ」などとしてみるとまことにぐあいがいいのである。
作品が何十何百となっても不自由はなくて、できた作品にふさわしいのを捜してつけたり、まるで形のうえでは関係がないようなものでも言葉が好きでつけるということにしたのだが、ともかくいくらでもあるし調和を越える調和とでもいうような感じになるので都合がいい。(勅使河原蒼風『私の花』)(注7)

蒼風と『古事記』の結びつきは、十六歳で国文学者奥田正造の講義を受けたことに始まるとされる。

……あの壮大で雄渾で、怪奇で華麗で息づまるようにつぎつぎと展開していくドラ マ性…、わたしは『古事記』によってどんなに空想家に仕立てられたかとおもう のだ。……古事記の底にある大特徴といったものは想像性の深さだとおもう。
自然と生物と、悪魔と神と、天地と人間と、随所随時に想像の妙をつくしてつづられている。
葬られるもの生みいずるもの、さまざまなたたかいはあとをたたないし全編はたえず涙でぬらされていく。かとおもうとよろこびに踊り歓喜にうたいさけぶのだ。(『私の花』)

勅使河蒼風を縄文のイメージで捉えようとする試みも彼の生前から何度もなされている。(注8)蒼風自身、縄文土器を絶賛する言葉を残している。

……日本人の初原性というか生命の根本を知るためにこれこそ最良のタカラであって、
……今日のように芸術大繁昌の時代でも、この紀元前の縄文土器と肩をならべられるものがない……(注9)

当時の縄文のイメージは、縄文の呪術、アニミズム的要素に対する弥生の簡素さ、機能性を対比させるような単純な議論がほとんどで、一般には、呪術やアニミズムを払拭し機能性を高めた弥生土器が、縄文土器に勝るとする論調が主流だった。
最近、青森の三内丸山のような縄文遺跡が発見されて、その知見が増すにつれて、縄文文化がブームになっているが、かつて縄文時代とひとくくりにされた時代は一万年以上に及び、その間に多様な文化を持つ人類が何層にも移住し、それが単純にひとまとめにできるものでないこともわかってきている。また、発掘が進むにつれて、前期以降のいわゆる縄文文化の中に、それまでの土器、土偶によって築かれてきた呪術的なイメージに加えて、その巨大な建造物と、その技術に対する関心から、巨木崇拝を持つ文化だったと考える見方も広がっている。
巨木崇拝は、巨木の柱を立て、その柱そのものに霊力を見いだす。これは縄文文化を通り越して、現在も脈々と受け継ぐ人々がいる。出雲大社本殿の高さが、古くは三十二丈、あるいは十六丈(約四十八メートル)あったという出雲大社にまつわる伝承も、柱の発見によって実証されつつある。信濃、諏訪大社御柱祭、伊勢神宮式年遷宮や木本祭、神社の依り代「神籬」などもこれとつながる信仰で、世界的な「宇宙樹=生命樹」信仰との関連も予想される。勅使河原蒼風の、伊勢のご神木を中心にした巨木による彫刻群(古事記連作)を、こうした巨木信仰との対比で見ていくことも、あながち無意味であるとは思われないのである。
小山修三によれば、縄文早期からヘビの図像があり、山や地の呪力の表現と見られている。(注10)さらに、縄文の火炎土器などにしばしば見られるS字形のモチーフを、ヘビの雌雄の交尾する姿と考え、その性のエネルギーと大地の豊穣を結びつけて考える学者もある。「生命の樹」、「宇宙樹」の観点から、小袖の「立樹文様」の樹のうねりとヘビの関連を論じ、そうした図像のモチーフを、「豊穣を生みだす渦」として、アジア全域に広がる生命信仰と結びつける、杉浦康平などもその一人だ。(注11)西洋でも、エリアーデも、ヘビは多産の大地と不定形のカオスの表徴とし、天空の秩序コスモスとの対立で考える。縄文のS字模様をヘビと見るか火炎や水と見るかはともかく、それらは全て不定形の、それゆえ産出力のしるしであり、「一切の存在可能性の象徴」「あらゆる創造をになう」(エリアーデ)のである。(注12)
三木成夫や中村雄二郎は、渦巻きや螺旋を、生命や自然、宇宙に拡がる波動(リズム)との結びつけで論じている。(注13)中村は、ユイグの所説を説明しながら、「エネルギーの増大は動的で不定形なかたちに対応し、安定したエネルギーは静的で規則的なかたちに対応している」とする。(注14)そこでエネルギーといわれているものは、量子物理学で言う、物とエネルギーを統合した「究極の実在」のことだ。
勅使河原蒼風も、枝の曲線や螺旋に伸びるつるの動き、木を絡ませる手法、好んで螺旋や渦巻きなどを木に刻みつけることで、S字や渦巻き、螺旋、不定形を形象化する系譜につながっている。樹木自身も、大地の豊穣を舞台背景に持ちつつ、自然のエネルギーを形に宿している。木やその地中部分である根の不定形な動きは、人間の制御をはるかに越えている。西洋的な造形論を学んだ彫刻家たちを戸惑わせるような、こうした植物の動きも、蒼風をはじめとするいけばな的な発想では、自然との関係において、決して否定的な側面とは言えない。木やその根っこが持つ形状は、人や動物の姿や表情と同じように、自己との連続性の中で受けとめられ、自然と人をつなぐ媒介となる。木を置き花をいけることも、目や手や足、全身を使ったダイナミックな自然との響応であり、認識の働きである。枝を切り曲げ、木を削る動作のうちに、「怪奇で華麗で息づまるドラマがつぎつぎと展開」し、「生命の根本を知る」ように、蒼風は、伊勢の神木に、ぐるぐると渦巻く入れ墨のような同心円や条痕を彫り上げる。過剰ともいえるような生命力の形態は、人間を圧倒する大地と自然への賛歌なのだ。
前出の杉浦康平の言う「生命の樹」、「宇宙樹」の信仰は、アジアのみならず、世界的に広がる天空から大地にまたがる生命力信仰の一つだ。中心にうねる宇宙樹を置き、百花を咲かせるモチーフはいけばなと同じであり、勅使河原蒼風もまったくそれと共通している。
勅使河原蒼風の不定形の造形は、戦後フランスのアンフォルメル運動と共振し、彼の書のパフォーマンスは、マチューのアクションペインティングや、ドリッピングするポロックの絵画技法を思わせるものがある。事実それらを模倣した面があるのかも知れない。蒼風自身、その運動の一員と見なされることを望んでさえいたが、おそらくアンフォルメルの中に、力動的な自然を感受する自分と同じ方法や、その兆候を見たのであろう。しかし、蒼風の不定形は、タピエの直観も越えて、フランス・アンフォルメルやアメリカ現代美術よりも、はるかに根の深い脈絡を持っていたということが言えるのである。

4 身体と宇宙を結ぶ呪術

エリアーデなどによれば、「〈聖なるもの〉は俗とは全く違う何かであり、しかもそれが石や木の中に顕現するのだ」(注15)という。ものに現れる働きや徴を感じること、それは星辰や宇宙のリズムにふれるような、ある体験である。時として人々は、自然と一体となるような不思議な叡知や歓びに包まれることがある。エリアーデは、「宗教的経験を持つ人間には全自然が宇宙的神聖性として啓示される」のだという。「俗界は神の模倣によってコスモス化される」。俗な存在の外に唯一の神を見いだす彼の究極の選択はカトリックということになるわけだが、縄文の呪術性を考える上では、レヴィ=ストロースの言う呪術の定義、「宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化である」(注16)という言葉の方が示唆的であろう。人はこの相互作用によって自然と共鳴するのである。
草木や自然、音の連なり、ものの持つ色彩や形、あるいは異性のセックスアピールなど、人が感受するものごとの受け止めには、人という動物が備えている共通性、、独特の嗜好と表情がある。しかしさらに、中村の言う、それらを全て支えるような「万物の宇宙的な共振構造」がもしあるとすれば、聖なる体験や呪術、美や芸術といった、人々を揺り動かすものの根拠は、人をも越えた普遍性を持っていることになる。
生まれた時から、感覚はものごとを捕らえ、概念を抽出し、範疇にまとめていく。そうした言語分節は知覚の直接性とは相対的に独立のシステムを作りあげるが、感覚的な認知作用は「対話性を通して身体に接続」し、言語文化に対する対極として残されていく。(注17)養老孟司は宗教や呪術を、人の脳が神経の先端である知覚を通して、知覚の境である「環境世界」と相互作用する機能に求める。脳はその甲羅に合わせて世界を構成し、さらにそれを宇宙論的に投射するというのだ。身体感覚は神経系の統御によって脳で像を結び、身体と宇宙を不可分につなぐ。だから、わたしのただ中にあってわたしを包み込む身体こそが、実体的な宇宙でもある。他者と自己、神や自然、宇宙と人の相似という帰結がそこで生まれるのも当然のこととされる。「脳は世界像を創る臓器」(『唯脳論』)なのである。(注18)逆ではない。
言い換えれば、経験を越えた知や規範を考えるのに、神のような超越的な存在を持ち出すのは、人という種の知覚と思考作用のかたちであって、超越的な存在が思考を照らし出しているのではない、というのが養老孟司の主張だろう。養老の主張によっても、脳の働きと自然の結び目を説明することはできないが、霊や精神のような、超越的な存在の仮定が、問題の解決にはならないという、養老の示唆は大切である。
たしかに、全ての事物を感受する身体(人)や脳の働きが、宇宙を決定するような思いは、発達した脳を持つ人の宿命かもしれない。しかし、自然は知覚を通じてそれに復讐する。一方に、人には統御できない、受け入れがたく恐ろしい自然があり、人々が知らない、超常的な力や知覚の枠組みを越えた事象との出合いがある。自然は決して人間の認識によっては統御できない暴力の連鎖によって、人の意識にかろうじてその姿を悟らせるような実在である。レヴィ=ストロースの先ほどの引用でも、宗教はこの自然をも統御しようとする人の思索であり、呪術はこの隙間を埋めようとする行動だと言っている。呪術が祓う霊魂は、後でも述べることだが、デカルトが生み出した精神のような、透明で質量を持たぬ存在ではない。あらゆる存在が謎を秘め、名付けられることでまた多義性と新たな謎を宿す。自然は畏怖の対象であり、人の肉体や精神を形容する比喩ではない。それは人を脅かし人の内部に浸透し、草も木も石も加工されたものさえ、意味を宿さずには存在しない。呪術は、身体的経験や鍛錬を通して、自然の不気味な露出の境界線を行き来し、それとの対話を重ね、時にはそのものに憑依して、ものごとを自分の親しい身体の内側へと導く智恵だ。この場所では、人と自然が相互に入り込み、あらゆる存在=ものが畏怖の対象であり、部分が全体であり、全体が部分となる。人は、現前するものごとを自分の世界の叙述とするために、思い切った跳梁と変身を繰り返す動物なのである。

5 述語文で現される世界

信仰の問題をつき詰めていくと、日常生活を支える超越的なものが、意識の外の自然から、身体の知覚によってもたらされて来るものなのか、それとも意識の内奥から発するものなのか、といった択一問題に行くように思われる。そしてそれは、人それぞれの資質と直観で決断される信仰の問題である、という円環に再び落ちいる。心身二元論あるいはその統一を巡る論争である。
近代以降、世界は西洋に発した思想の洗礼をずっと受け続けてきた。西洋の思想は一筋縄ではないが、その一つは父子の家族的結びつきを神=主体という普遍原理に置き換え、父子の葛藤劇を通じて人間史を完成に向かうドラマとして説明する。同時にこの信仰に対するさまざまな批判の広がりが、キリスト教内やマルクス主義、主体論、反戦運動、カウンターカルチャーなどのさまざまなかたちで展開した。だが、西洋的な思考は心身二元論をなかなか克服できない。印欧語の、従って西洋人の思考の構造が、主語と述語、つまり動作の主体とその叙述というかたちで構成され、『唯脳論』的に言うなら、自然を脳の秩序の支配下に置こうとする強い意志で貫かれているからだ。一方、「日本語」と呼ばれるものの構造は述語文であり、動作主を必要としない。「雨が降る」も「花が咲く」も主語などはじめから無いのである。
今知覚にもたらされる現象を冷静に考えていけば、述語文で現される世界の方が、世界の叙述として妥当だろうというふうに、私には思える。しかし、明治政府が学んだ西洋の知は、自然と人間を分離し、自然を人間にとっての、分析と所有・支配の対象とする、西洋近代の自然観であった。その〈自然〉と対応する〈精神〉は、自然や生命との接点を持たない、純粋な思索に還元される。
それまで「日本語」にあった〈自然〉という言葉は、〈おのずから〉や〈みずから〉を意味し、自然の生成する自発的な力と、人の自発性を矛盾なく名指すことができた。西洋の自然に近い概念としてあったのは、むしろ〈天地〉や〈万物〉だろうが、その〈天地〉や〈万物〉が、〈自然〉、つまり〈おのずからしかり〉という主客融合、むしろ主客分離以前の場として成立していたのである。そうした「伝統」を考えると、明治の知識人が主客を分けて自然と対峙するような観方を簡単に受け入れることができたとは考えられない。
西洋でも、近代の自然観への批判から、十八〜十九世紀のロマン派による自然賛美が始まる。北村透谷がワーズワース、バイロン、エマーソンの詩や詩論を取り上げたように、「日本」の知識人社会では、もっぱらこうしたロマン派的な自然観が、自ずから成る「述語文的自然観」と「近代自然観」を紛らす触媒となった。「日本近代」の枠組は、それまであった述語文的な自然観を、脈絡が全く違う西洋近代の枠組に巧みに接ぎ木した寄せ木細工であり、しかもその危うい細工の上に、ダダ以降の西洋近代批判をさらにまた受け入れながら、その矛盾にも気づかないという、自分で考えることを忘れた受け売り優等生のような体制として構築されたのである。
蒼風は、当時の社会状況の矛盾をもろに負わされるような場所にその身を置き、その場所を実践的、創造的な場所とすることでその問題に応えた。彼の存在は、当時でき上がったばかりの、「日本芸術界」や「いけばな界」の、薄っぺらな理屈を越えていたのである。彼をそれまでの述語文的な自然観や、他者の眼差しへの応答として作り上げられた、「日本的」叙情表現の系譜に位置づけることは困難なことではない。しかし同時に、彼の作品を二十世紀の世界史的視野の中で、近代芸術観の批判としてある、ダダやシュールレアリズム以降に登場した、「現代芸術」の地平の内に考えることも可能に思える。タピエは、彼の主張する「もうひとつの美術」にとって、解決を探し求めていたその答えの一つを、蒼風の作品に見出した。それは彼の作品の真の根源性を示している。しかし、早急な結論は差し控えなければならない。

花は美しいけれど、いけばなが美しいとはかぎらない。花は、いけたら、花ではなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。それだから、おもしろいし、むずかしいのだ。自然にいけようと、不自然にいけようと、超自然にいけようと、花はいけたら、人になるのだ。
花があるから、いけばなはできるのだが、人がなければ、いけばなはできない。
ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。ウソは創造なのだ。創造のないいけばなはつまらない。(『勅使河原蒼風花伝書』)

これら『勅使河原蒼風花伝書』の言葉は、一般にいけばなの造形性、あるいは、作家の表現の個性に関する発言と思われているが、むしろ蒼風はいけばな表現の自律性について述べているだけである。
「花はいけたら人になるのだ」「ウソは創造なのだ」と語る蒼風は、自然と人間の結び合いによって、木や花が、自然からも作家からも切り離されて、独立の世界を構成するに至る過程を洞察していると思われる。

いけるというのは、字に書いてみれば造形る、変化る、といったことなのだ。
いかに、造形たか、
いかに、変化たか、
ということが問題なので、ここに急所といったようなものがある。

これも、もちろん彫刻的な意味で造形について語っているのではない。彼が造形という言葉であらわすその内容には、作家の意志によって、そのものの形を変えることや、作品として構成すること等が、全て含まれている。こういったからといって、わたしは、蒼風のいけばなにおける造形性を否定するつもりはない。植物素材の構成だけとっても、草月流の運動より以前に、〈しん〉と〈下草〉の構成以外の形式で、いけばながいけられたためしはなかった。草月の活動の中で、はじめて花材を構成要索としての素材に還元し、好きなように切ったり編んだり組んだりしても、いわゆるいけばなの形式はつくることができるし、そこから、新しいいけばなと言ってよい作品が生まれた。しかし、そのようないけばなが、なおいけばなと呼ばれ得るのは、「素材を植物におっているから」、などという便宜的な理由からではない。どんなに造形的につくられたいけばなでも、使用された材料の記号性が零でなく、少しでも意味を保持し、それが作品作りの上で表現の一要素となっていることは、いけばな的表現の特徴と考えるべきものだろう。

……花がいけばなに使われるとき、素材として自由に使っていいのだといっても、花がもっている言葉を無視することはできないのである。
草木みなものいうことあり。この文はすでに、わが国の最も代表的な古典、日本書紀に示されているのだが、強く共感をおぼえる。
花は人間に、深いさまざまな謎をかけてくるのだ。見る時、見る人によって、その謎は無限といえよう。
いけばなは、花と語りつついける。そんな感じにおちいることがよくある。

これら『花伝書』の言葉からは、他の人々には見えないものからも意味を読みとる、蒼風の直観や洞察力と、それらを総合し、意味ある連関を創り出していく、蒼風の力技が目に見えるようだ。活け手と自然の関わり合いが生み出す場所、いけばなはそのように捉えられている。それは、主体中心の世界ではなく、まさに述語文で現される世界である。

6 かたちとリズム

人も動物も、知覚の感受に頼りながら、その外側を構成し、世界をつむぎ出す。ものごとが生起する場と出来事が同時に出現するのだ。身体が刻むさまざまなリズムが、分節化されるものごとに影響を及ぼすのは当然のことである。そうでないとすれば、意識にとって、その外部がもしあったとしても、人が知る世界がそれとどのように対応するのか、私たちはまったく知ることができないことになる。人は境目を這うようにして、ものごとの生起する場所をうごめくばかりであり、意識の外というものを、想像することすらできないのだ。
しかし、人の意識のかたちには、感受される自然の側も呼応しているような感じがする。外から来る力に直接触れているような感触や、自然との同化や異化、さらには共鳴ということの実感には、おそらく人の意識をはるかに越えた大きなところで、ある種の響応が存在していると考えるほうが自然だ。唐突だが、たとえば植物が花をつけるのは、人にではなく、その生殖を媒介する昆虫に対してである、と植物学は教える。人と虫は花を好むことでその感受性を共有しているのかも知れない。鳥やほ乳類の雄はその相手に対して着飾り、そう思わない人もいるだろうものの、多くの人はそれを美しく感じる。気持ち悪い、恐怖をいだく対象も同じことが多いのはなぜだろう。好き嫌いをも巻き込み、好き嫌いを越えて強く訴えてくる何かが、確かにある。たとえば器など、美しいと感じられる形には共通項があり、口で説明できなくても、大部分の人は多かれ少なかれそれを感知する。美しいと感受してしまう理由を説明するのは困難だが、ひょっとすると人という種をも越えた共通感覚の可能性も否定できない。音のつながりが旋律となり、リズムを刻むとき、言葉や文化に関わらず、歓びや悲しみという同じ響きを持つこともよく知られたことだ。鳥のさえずりや虫の音の響きが持つ力もある。確かにそれを雑音と感じる人もいる。だが、その律動に引き込まれる体験は異常な出来事ではないだろう。あるいはこれも鳥や虫、人という種を越えている可能性がある。
一方、それとは一見対照的だが、誰でも人は、見慣れたものに慣れ親しみ、大勢の記念写真の中で、自分や肉親の顔が、他を背景にして浮かび上がることを知っている。逆に、見慣れたものが退屈なこともある。また、新人タレントが親和作用によってメジャーを確保していくように、見慣れぬ斬新さも共感を得て支持され、やがて地歩を占めていったりする。また、名画はよく見ることでさらに名画となる。そんなことの一つ一つも不思議なことに思われる。意識の現れを脳(身体)の作用だと説明してみても、その仕組みを解明したことにはならない。今あげたような、人やそれを越えた生命や自然の響き合い、慣れ親しみのような感覚上の出来事がなぜ起きるのか、ものと意識をめぐる知覚作用の不思議を解きあかす方法は無いのだろうか。
相対性理論や量子物理学によって、因果作用として対立的に考えられてきた、物質とエネルギーが統一されたように、身体とその意識による世界形成を、主客の宿命的な二元論ではなく、同一の地平で捉えることはできないだろうか。先に引用した『かたちのオディッセイ』の中で、中村雄二郎は、ホログラムを援用しながら、かたちとリズムを物質振動の波動として同じ次元で考えるという方法で、この問いに答えようとしている。
「全体性としての世界が一見ばらばらの事物に内蔵され、振動や響きあい、引き込みなどによって生成するかたちが全宇宙を律している」とする「汎リズム論」の提唱である。まるで華厳教やライプニッツのモナド論をほうふつさせる世界だ。全ての存在や場をリズム振動とみなすこのような見方は、自然と生命、幾何学的な形象などの関係を統一的に扱うことを可能にするばかりではない。動物や植物、人などの生命どうしの共鳴や、人の身体に宿る意識と自然との共鳴に対しても、新たな光を当てる。しかし、こうした世界観は新しいものではない。中国の道家も自然を気の働きで説明し、天地の気を受けることが造化であると主張した。(注19)これらの主張は、知りうべくもない人の世界の外を想像するという点で飛躍しているようにも見える。さらに、人の意識が宿すものの全てを、自然や宇宙という総体に吸収していく危険な思想ともなりかねない。ことは慎重を要するが、最終章でももう一度取り上げることにしたい。
荻生徂徠は孔子を読む立場で、自然の造化から人の「作為」を分離し、自立した世界=「道」としてその両者を区別する。人が住む世界の秩序は「作為」されたものであって、「自然」とは違うのである。荻生徂徠のように、「中国」や「日本」と言われる思索の歴史の中に、「自ずから成る」と「作為」を別レヴェルで考えていく系譜があることは重要であろう。(注20)蒼風も、自然といけばなの秩序を別次元と考える点で荻生徂徠と同じ立場なのだ。
しかし、荻生徂徠のように、自然と制度(人の作為)を分けて、それぞれを自立した体系と考える立場も、西洋の<人工)と(自然)や、(精神)と(事物)の二元論とはおもむきに違いがある。主客を分けて自然を外側から見るというのではない。(作為)を司る(聖人)もまた、天地の霊感を受けつつ作為する。主客は分離されることなく響き合っている。その(自然)が、西洋のような人間の外部ではなく、「自ずから成る」働きと考えられる以上、人の意識=作為が、より大きな力=「自ずから成る」に包摂されるのは当然のことなのだ。
しかし、「自ずから成る」は意識化された自然であって、人の知覚の外がそうなっているという証明はどこにもない。むしろそれは、知覚の内側にある、意識しか認めないような、極端な観念論なのである。そうした観念論、「自ずから成る」自然と、中村が考える「汎リズム論」とは、どこかで響き合うところがあるのだろうか。
勅使河原蒼風は、いけばな以外に、彫刻や書、絵画、舞台装置など、さまざまなことを行った。そこでは、生きた統一としての生命のリズムが全てに響いているように見える。勅使河原蒼風の、ものを感受する力が、個々ばらばらに見える事象を結びつけ、そこに新たなかたちをもたらすとき、勅使河原蒼風という刻印が押される。
「花はいけたら人になる」「いけるというのは、造形る、変化る、といったことだ」。
これらの言葉も、中村の「汎リズム論」のような、新しい視点を得て光彩を放ってくる。(いけばな)とは、自ずから成る自然と人が出合い、互いを響かせ合うような、人為による協同作業の場だ、という主張を、そこに読みとることができるからである。

注及び参考文献

まえがき
1-勅使河原霞『小さないけばな・春・夏・秋・冬』主婦の友社、一九八〇年
2-亀倉雄策、他『わかれと回顧』等、草月127号、草月出版、一九七九年
3-北澤憲昭『眼の神殿』美術出版社、一九八九年
 佐藤道信『q日本美術r誕生』講談社、一九九六年
 朝日新聞二〇〇一年12月21日夕刊では、『「芸術史とナショナリズム」論議』という記事の 中で、千野香織・学習院大教授の次のような説を紹介している。
 千野氏らによると、学問としての「日本美術史」は1880〜90年代に成立した。日本が近
 代国家への変身を急ぐなか、欧米に比する美術、文化の伝統を誇示する国威発揚の必要に迫 られた背景があるという。
4-勅使河原純『花のピカソと呼ばれ』、フィルムアート社、一九九九年

第一章 勅使河原蒼風の作品イメージ
1-ミシェル・タピエ、芳賀徹訳『或る邂逅』、『蒼風の彫刻』一九五七〜一九五八年より
2-以下、草月出版編集部『創造の森』草月出版、一九八一年、『いけばな草月』1〜127号、
 草月出版勅使河原蒼風、草月流の歴史については、この本を参考にさせていただいた。
3-『いけばな草月』70号、草月出版、一九七〇年
4-まえがき 注3 北澤憲昭『眼の神殿』、『草月』257号など
5-勅使河原蒼風『花伝書』草月出版、一九七九年
6-エリアーデ『聖と俗』法政大学出版局 叢書ウニベルシタス、一九六六年
7-初出は『一冊の本』朝日新聞社、一九六三年
 勅使河原蒼風『私の花』講談社インターナショナル、一九六六年
8-飯田善国『遠視的に見た蒼風の世界』、『別冊1978草月』、草月出版、一九七八年
9-草月』73号、草月出版、一八七〇年
10-小山修三『縄文の精神世界をさぐる』『日本人の自然観』河出書房新社所収、一九九五年
11-安田喜憲『縄文文明の環境』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー24
 杉浦康平『生命の樹・花宇宙』NHK出版、二〇〇〇年
12-注6
13-三木成夫『生命の形態学』うぶすな書院『生命形態の自然誌』第一巻 一九八九年
14-中村雄二郎『かたちのオディッセイ』岩波書店、一九九一年
15-注6
16-レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、一九七六年
17-浜田寿美男『「私」とは何か』講談社、一九九九年、尼ヶ崎彬『ことばと身体』勁草書
 房、一九九〇年など
18-養老孟司『唯脳論』ちくま学芸文庫、一九九八年
19-栗田直躬『中国思想における自然と人間』岩波書店、一九九六年など
20-『荻生徂徠』中央公論社、日本の名著16、一九七二年