勅使河原蒼風4 勅使河原蒼風のいけばな(広瀬典丈)



目眩めく生命の祭-勅使河原蒼風の世界4 →5
Paper of Ikebana (Michtake Hirose ) 1← 2← 3←
(広瀬典丈)
エディット・パルク(2002年2月20日発行)
 ウ617-0822 京都府長岡京市八条丘2-4-14-506
 TEL075-955-8502
○定価 1,600円+税 ご注文は、書店、出版社、私たちに直接でも結構です。(ISBN4-901188-01-1)
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(4)勅使河原蒼風のいけばな

Contents_まえがき (1)勅使河原蒼風の作品イメージ
(2)草月流と「近代芸術」(3)いけばなの成立と近代いけばな
(4)勅使河原蒼風のいけばな
1いけばなの置かれる舞台 2勅使河原蒼風と戦後いけばな 3勅使河原蒼風と異文化接触
4蒼風以降のいけばな 5蒼風いけばなの核心
(5)勅使河原蒼風の彼方 あとがき

1 いけばなの置かれる舞台

重森三玲や山根翠堂、勅使河原蒼風などの言葉を、当時の都市文化にうかがわれるインターナショナリズムの雰囲気ぬきに理解することはできない。大正・昭和期に入って、いけばなは西洋美学や芸術論的な観点から論じられるとともに、床の間空間を離れて、洋間や玄関、はてはホールや展覧会場へと、発表の場を広げていく機会を得た。しかしそれは、床の間空間の保ってきた、聖なる位置が薄められ、住宅建築中の客用和室の小道具に過ぎなくなったことも意味している。いけばなは、都市の環境変化で相対化した床の間から押し出され、薄められた祭式としての力を、「芸術」という舶来権威に置き換えながら、二十世紀の商業スペースに場を拡大していった。勅使河原蒼風が、草月流の最初のテキストで「新しい生活環境」という問題を強調するのには、そういう事情がある。蒼風は、山根翠堂が留まった地点から一歩踏み出す。彼は、マス・メディアや商業の重要さにいち早く気づいていたのである。

時代が、明治になり、大正となり、昭和となり、日本人の生活にも、大きな、根本的な変化が、いろいろなものの上に現れたことは、よくご承知のことでありませう。何事もさうであったやうに、あまりに大きな変化は、今まで夢のやうな完成の美に酔つていた「いけばな」にも、大きな動揺をおこしたのであります。今までの、完成されてゐた調和が、乱れたのでありました。どんな事でも、生活と歩調が合はなくて、よい筈がないのですから、これは無理もありません。新しい生活に、新しい時代に、調和する「いけばな」が生まれねばならなかったのです。……旧時代の優しい静かな単純な教養や生活、そこから生まれる花への観念は、「いけばな」を床の間だけの飾り物としてしまいました。……近代的な複雑な感情に生きる、新時代の花への愛情は、もっと第一義的です。……ある時は書棚の端にも、机の上にも、食卓にも寝室にも花を置きたいのです。花と共に生活をしたいのです。……いつでも時代と共に生きてゐられる日本の「いけばな」を作らねばなりません。(注1)(『新しい生花の上達法』)

『新しい生花の上達法』で、勅使河原蒼風は、花型を三つの役枝による構成という基本的な約束と、その役枝の動きの組み替えによる変形という、形態的な問題として扱う。これは江戸時代以来の、陰陽五行説や天地人などからすれば、すこぶる合理的な考え方で、それによって彼は、床の間空間に支えられてきた花型の聖性をはぎ取り、それを自由に解釈できるテキストに変えることに成功した。それが、景観と身体の二極を揺れる花型の、より身体性への比重移動を促し、いけばなの型を、身体の動きの比喩とも取れる、自由な捉え直しができるようにした。西洋彫刻的な造形意識や、「心象表現」に近づいていく成りゆきが準備されたとも言えよう。
江戸時代の花型のリアリティが説得力を失い、都市的な環境の中で、西洋的なリアリズムや個性、近代という道具立てが広がっていく時代の雰囲気、それが勅使河原蒼風のいけばなを決定した。いけばなにまつわる似姿の聖像性の剥奪によって、いけばなの場は、床の間から玄関、ホール、ウィンドウ、花展会場へと広がり、江戸後期以来硬直していた、花材の組み合わせに対する禁忌が外される。花材や花器の組み合わせの自由は、蒼風以前に少しずつ進んでいったことかも知れないが、それによって、いけばなの置かれる舞台そのものが変わったことを意識化したところに、蒼風の世代のいけばな作家の時代性が現われている。
蒼風の、花材とその組み合わせに関する説明を聞いてみれば、そこに出てくる言葉が、当時、欧米でもやっと馴染みとなってきた、デザイン理論の用語ばかりであることに気づくだろう。花材はその歴史的な積み重ねの意味を離れて、抽象的な線の構成という、近代芸術的な文脈を意識した観点に移し変えられている。花材に対する視点の取り方が変わった訳である。

寒竹と薔薇、まではよいとして、その器に、フランス製のグラス瓶は、どなたにも意外に思はれることでありませう。寒竹なんて、殊に東洋趣味な、クラッシックな材料ですね。しかし、その細い茎、薄い形のよい葉、私は、舶来花器と東洋の花との面白い調和美をしばしば感じてをります。なんでも取り合せや配合は、習慣的にしないで大胆に思ひ切つて使つて御覧なさい。
枝が、ある点から出発してある点へ到達する、その経路  こゝが「いけばな」の美しさ、面白さを多分に表現してくれる、線の効果であります。細い線、太い線、曲つた線、真直な線、動く線、止つてゐる線、並んでゐる線、もつれてゐる線、速い線、遅い線、軽快な線、重々しい線等々、数へればきりのないほど様々な線が、植物にはあるわけです。その線をいかに組み立てるか、いかに駆使するか、この研究は一番面白くもあり、またむづかしくあり、同時に大切でもあります。描線の妙境をたづねる事は、よい挿花を得ることです。この作から、細い―軽い―速い―曲線の律動的な組織を御覧ください。

江戸時代の文化の脈絡から距離ができたことで、いけばなの花材の意味は急速に流動化し、旧時代的な決まり文句の枠内では、それに対応できなくなった。蒼風の自由花は、環境の新しさに見あうだけ変わっていった。それは第二次大戦後の、蒼風の華々しい活動に比べれば、一見目立たないが、このテキストでの蒼風の語りは、常套化した様式を越えて、新しいいけばなが確立されていく過程を存分に伝えている。それは、古いシステムの破壊であると同時に、古典への回帰であり、システムの組み替え・再編から新しいいけばなが確立していく、蒼風にとって、確信に満ちた時代である。
勅使河原蒼風は、一九三〇年代から四〇年代にかけて、いけばなの形や花材の新しい扱いの工夫をし、枯れものや鳥の羽のような、生きた草木以外のものも、少しは使い始めていたと思われている。重森三玲や、シュールレアリストの福沢一郎、滝口修造、バウハウス的な機能主義建築家、佐藤武夫などとの親交によって、国際化した都市インテリの時代精神にも直接触れている。とは言え、当時の蒼風のいけばなが、過去のいけばなの形態や形式を、決定的に変更したということもない。蒼風の精一杯の歩み寄りにも関わらず、先に指摘した工藤昌伸や小原豊雲らモダニストたちと、蒼風の違いは誰の目にも明らかなものと思われた。
リアリズムの精神は、ものに客観性・主観性の対立を持ち込み、自我の視点を介して「真実」を「ありのまま」に見ようとする。いけばなの形や、花材の聖像的な意味を離れ、いけばなを床の間から解放した勅使河原蒼風は、やはりその意味から、いけばな界のリアリスト、芸術派として登場していると言えるかも知れない。しかし、西洋造形芸術が人間中心主義によって自然を分離し、それをイデアの統御下に置こうとするのに対して、蒼風のいけばなが、自然に向かって開かれ、多義的な自然をそのまま人の世界に移し変えようとしている、という違いも忘れてはならない。それが近代の造形芸術家から、勅使河原蒼風の造形的な弱さ、甘さとして、しばしば批判を浴びる理由である。いけばなはここでも、人間のフォルムよりは自然にその範を取り、自然と人をつなぐ場所に置かれていることが指摘できるのである。

2 勅使河原蒼風と戦後いけばな

戦時体制の進行とともに、世界的な文化交流と移入の波は急速にひき、いけばなの世界も復古調のものが主流になる。いけばな沈黙の時代である。それに対して、第二次大戦後の勅使河原蒼風の世界は、それ以前の彼の活動と比べても大きな違いがある。それは彼のいけばなに「オブジェ」と呼ぶ形式が生まれたことである。いける花が少なく何でも使うほかなかったというのも事実だろし、戦後入ってきた未曾有の芸術情報が、彼の旺盛な好奇心を刺激したのも確かだろう。勅使河原純は、一九二四年に発表された『『シュールレアリズム宣言』のことを指摘している。これが世界に与えたインパクトの大きさ、また、当時東京美術学校に在籍していた勅使河原宏の存在を考えれば説得力のある意見である。(注2)
一九四八年から五〇年頃に日本花道展などに出品されていった〈再建の賦〉〈望古譜〉〈黙〉に至る作品は、樹木の葉や花の量塊の上に枯れ木を延ばすという、それまでに誰も見たことの無いものだった。しかし、これも新奇な中山文甫の戦前に発表したオブジェ的ないけばなに比べて、新鮮な驚きを与えたものの、好意的な反響の大きさでは際立った違いを見せた。写真を見てもわかるように、それは新しい形ではあったが、蒼風の戦前の自由花の技の冴えを知る者にとっては、その手管の一つ、あるいは発展、いけばなの新しい可能性と映ったのである。時代もそれを受け入れるにふさわしい舞台を用意していた。
続く五〇年代には、鉄の機械廃材を組んだ〈散歩〉、〈機関車〉、〈車1・2〉、木の根とやまいもによる〈手〉、鉄、石、アンスリウムによる〈親子鳥〉、そして〈虚像〉と、堰を切ったように圧倒的な作品群が並ぶ。〈虚像〉は、漆喰で白く塗られた太い欅を縦に切った上に、ひば、きゃら、いぶき、椿などが、真ん中を「二真の立華」(注3)のように見事に空間を分けて乗っている。こうした作品は、もはや器を用いず、木の根・葉・花の量塊から鉄の機械廃材や石などを使い、その中に植物を配置するか、あるいはまったく植物を使わないものさえあった。一方、耳付きコンポートに枯れた黒いひまわりを上下にいけて君子蘭を配した小品も、器に花という従来の手法を忘れさせるそのユニークさで衝撃を与えた。戦後のいけばな批評の前線に立った工藤昌伸は、これら一連の作品を高く評価しながらも、〈虚像〉の「二つ真立華」との関連や、オブジェ〈手〉における、やまいもの扱いから、蒼風を、文人花や古典花的伝統の上に立った作家と見る立場を変えていない。(注4)

私はやっぱり立華や立華砂の物との関係はある程度勅使河原蒼風に影響力がかなり強くあると思うし、ことにもう「望古譜」から「虚像」「幻華」に到るまでの系譜、「黙」に到るまでの系譜というのは、全部通してみんなそうですね。(『人物・昭和のいけばな史』『いけばな批評』21号 )
枯れたところかずらが、その掌のなかからおちこぼれるように、そっとおかれしかもそのかずらの細い線が左側に弧をえがいたままにされている。こうしたイキの素材のあつかいを見ると、これは文人抛入花の世界を経てきた作家   のあつかいであることが分る。(工藤昌伸『勅使河原蒼風「手」』『いけばな批評』13号 )

新しい表現法は、「オブジェ」という名が与えられて、たちまち草月流の内外に広がり、模倣もされていった。戦後の革新的な時代風潮に乗ったということもあるだろうし、もちろん、保守派の非難を浴びなかったわけでもない。しかし、けっきょくはいけばな界は、この戦後の新しいいけばな形式を受け入れ、オブジェいけばなの大きなうねりが各地、各流派に伝播していったのである。
第二次大戦後の欧米文化の移入と呼応して、大正・昭和初期の都市文化の流れは蘇り、全国的に増幅していく。シュールレアリズム、ロシア・フォルマリズム、バウハウス、機能主義、抽象絵画、アンフォルメルなどの美術運動がどっと入ってきて、いけばなにも、近代化という、汎人間主義的な西洋の歴史観が、はっきりと意識されていた。そうした文脈上のリアリズムは、神話やあたりまえの事実を越えて、ものの背後、細部、裏面、未だ見たことのなかったものなどに向かう。近代芸術の前衛としてあったアブストラクトさえ、人々が知らなかった新たな現実=自然の発見という身ぶりによって、同じ近代リアリズムの舞台上の出来事と見なされたのである。「オブジェ」、「造形いけばな」などと呼ばれた第二次大戦後のいけばなの主流は、西洋芸術の普遍性を前提にして進路を決めることになる。

造形する歓び、造形する本能というものが人間にある限りこれを働かせないことはまちがっている。それをたまたまいけばなという植物相手に造形するという習慣によってかなりな満足をみんなしていたわけだけれども、これはほんの素材として限られた一部にすぎない。
そこの造形する歓び、造形する本能というものをもっと広く、強く自由に働かせたい、そういう意味から私たちのいまの第二の仕事というものが生れたので、少しも植物を使っていないという作品ができたことは非常な希望と歓びをもって迎えてもらわなければならない状態じゃないかしら。たとえば植物の中でもずいぶん私たちはいままで人が相手にしなかったものを相手にし、枯れた枝や枯れ葉を活けている。枯れた枝はいけばなじゃないなどと云っていたその甘いものの考え方、枯れた枝がどんなに生きている枝とちがった美しさを持っているかわからない。また土の中からほじくり出した木の根っこなどはいままではもちろんこれを眺めるなどと思った人はないけれども、これが私たちの扱い方ではほんとうにまた地上に出ている部分より地下にあった部分の新しい美しさに感動を起こさずにはいられない。それから枯れた葉でもそうで、枯葉の美しさは生れた葉の美しさとちがってまた私達の心ひかれる素材だ。そういうことを考えてみると、植物というものの中にもまだまだその美しさを見出していないものがある。たとえば木の皮をむいて皮の下の肌を眺める場合に、なんというまちがったことをするんだろうなどとは云えない。……そのほか植物でもないものも活けるというに至っては、もう素材の範囲はまったく無限と云わなければならない。紙も活けられるし布も活けられるし、石も活けられるし、周囲にあるものはなんでも活けられる。そこでいままでそんなものを材料と思っていなかった考え方からすれば奇々怪々に思えるかもしれないけれども、実はそういうものを相手にしなかったほうが奇々怪々で、人間はなんとなく習慣に自分で自分を縛りつけている。そういう馴れた、誰でもがやることの中に安住し易い。私たちは少なくとも自分の仕事の面ではそういう生ぬるい落ちつきに甘んじていたくはない。だから今後第二の仕事つまり第一の仕事はいけばなを現代のものにしたという仕事、第二の仕事はいままでなかった新しい造形を育てるという仕事、これに私達はいままでなかった大きな勇気と希望を持って向っているわけだ。(注5)(『二つの仕事』、『草月』17号)

勅使河原蒼風は、地下に隠されていた木の根を用い、木の皮を剥いで内部を見せる、といった手法から、鉄の廃材、石、紙などと花材を広げた。それは、馴れてしまった自然を見慣れないものに変え、そこに新鮮な驚きを見いだすべき「外界」を作りだす手法とも言え、その限りで、シュールレアリズムのオブジェと同一地平上に並ぶ。しかし、それは、シュールレアリズムのオブジェのような、「異化」に終わるのではなく、自然の隠れた部分に新しい親和性を見つけだし、馴化する方向性を伴っていた。
蒼風のいけばなは、まず花材の見直し、次に草木以外への花材の拡大という方向をとった。草木の栽培や本草学からその〈出生〉を調べ、花形を決めていくのが「生花」の時代だったとするなら、第二次大戦後の蒼風のいけばなの精神は、それと対照的である。「生花」の、「出生」という言葉に込めたイメージは、自然の草木の一つ一つに造化の理を認め、それに従うことだった。生花でいけられる草木は、個々の枝や草花を越えた典型としての、「自ずから成る姿」を現している。だから、作家個人の勝手な解釈や、扱い方の自由は許されない。作家に求められるのは、「自然の理」に同化・共鳴し、その働き自体になる修練である。
それに対して、勅使河原蒼風では、彼の草木に対する関心や興味が、具体的な枝や花・葉のある部分の、個人的な特殊な見直し、発見という態度に変わっているように見える。そして、彼の主張には、人それぞれの思いが、表現の目的であり、作家個人の、花材に向かう造形意識が、新しい感動の発見のために、最も重要であるとの主張も読み取れる。しかし、蒼風のいけばなが、いけばなが持っていた世界観全体を否定し、いけばなを「造形芸術」に吸収するようなものだったとは思われない。工藤昌伸もそう考えたように、蒼風自身も、これらの事態を、いけばなの延長線での出来事、いけばなの射程をより大きく、遠くまで発展させていった結果だと考えていた。門人達も同様である。以来、いけばなの方法を拡大し、さまざまな方向に発信していくことが、戦後の草月流の仕事の一部になったのである。

3 勅使河原蒼風と異文化接触 

第二次大戦後の蒼風の作風の変化は、彼のいけばなの全てに起こったのではない。むしろ、小品の大部分は、意表を突くような大胆な枝のカットや矯めなどがあるとはいえ、戦前からの作風をそのまま踏襲した、古典的な構成による自由花である。そこにはまったく「造形的」な花材処理が表だっては見えない、無造作なほど何気ない作風のものもけっこう多い。蒼風は、いけばな的な態度と近代造形芸術的な態度のあいだで、微妙なバランスを保っていたのだろうか。彼の作品の変化にも関わらず、教本で読む限り、その考え方は戦前から一貫して変わるところがないので、そのあたりを要約してみよう。

○いけばなは、日本独特のもので古い伝統をふまえ、他国にない芸術なので日本が先駆している。
○自然の花の美しさといけばなの美しさは違うので、それをつくり出す特別の研究や工夫が必要である。
○いけばなは、その時代の生活様式、自分の気持ちにぴったりとくるようなもの、いつでも新しく、生き生きと変わり動いているものである。型にはまってしまえばやがて死んでしまう。
○いけばなは、それぞれの飾る場所、環境に調和していなければならない。さまざまな場によって、大きさも形も、色彩も、使う料も刻々新しい工夫と研究が加えられねばならない。(注6)  

勅使河原蒼風は、江戸時代末以来の文人趣味の教育を受け、文人花の流れの中で、彼の父である和風に師事していけばなを始めた。漢文学や『古事記』の講義を受け、祖父の一人は書家である。文人花の西川一草亭や富岡鉄斎との親交もあった。(注7)蒼風にとっての少年期は、まったく文人的な素養を身につけるのに費やされていたのである。当時の文人は、江戸時代、明末の混乱を避けて移住した「中国人」によって招来された、「中国」ブームを背景に生まれた。彼らは、草庵をかまえ、和歌や俳諧、茶の湯、漢文学、書画、いけばななどの脱俗の風雅を楽しむ「市中の山居」の俗人達で、彼らの立場は脱俗、「中国」(異国)趣味、高踏といった好事家的な自由である。蒼風はそのような、江戸時代文人のあり方を背景にして彼の立場を築いていた。いけばなばかりではなく、さまざまな分野、書画、篆刻、彫刻などの横断的な仕事をし、漢文学や『古事記』、西洋芸術を含む多くのものに旺盛な好奇心を持ちそれを消化した。そうしたことも文人としての脈絡にかなっている。勅使河原蒼風には文人としての一貫したスタイルが通っている。
蒼風は、彼が置かれている文化そのものを対象化し、その枠組を離れて見るような場を持っていない。その意味では、当時の西洋派の新しい知識人一般と同様、内には西洋芸術の紹介者、外には西洋とは異質な文化を背景にした表現者としてふるまった。しかし、彼の基盤が、古い文化に根付いたものであった分、西洋の流行思想に振り回され、付和雷同するような言説に対しても、落ちついて自己の立場を確立するゆとりを持ち得たのであろう。彼の仕事は、たとえ創造=想像されたものであったとしても、彼が考える「日本」という文化の脈絡の中で、その多様な表現のヴァリエーションの一つとして、理解することはできるのである。
彼の作品群を見れば、「造形」という言葉が、必ずしも近代芸術の枠に納まらず、一見モダンな発言の底で、いけばなを、「自ずから成るもの」を人間の場に持ち込むための「作為」、として捉えていたことがわかる。それが逆に、自我意識の揺れから、二十世紀の西洋芸術に生じた、偶然性、非構成、生成、変形原理などに対する関心と、蒼風のいけばなを結びつけた。勅使河原蒼風は、江戸時代以来の文人的立場と、自分が西洋現代芸術にとっても重要な意味を担う存在であるという、両義的立場を自覚し、それをこなしたのである。彼のあらわす世界が、普遍につながる表現の核心に届いているという、ある種の信念がそれをさせたと思われる。
和歌における花、『古今集』から『風姿花伝』にも受け継がれていく、花実の論でもわかるように、『古今』以来の書き言葉の文化の中心にはキーワードとして「花」があった。それは世界中で、花唐草の装飾文が祭器に施され、聖域や祭礼が花で飾られることにも通じている。人は、生の手応えや肌触りといった、実感を込めて花に出合うが、見る者、いける者から見て、それが、心にふれる存在であるとともに、仰ぎ見るような存在でもあるからである。壮大な花木構成である書院飾りの立華と、茶室を飾る一木一草の茶花、〈雅び〉と〈侘び〉という両極のいけばなも、『古今・新古今』以来の花の消息の内にある。それは「ものがことを呼び寄せる出合いの場」である。華やかな花から、〈秘する花〉、〈幽玄〉、〈侘び〉など、出来事に潜む目に見えない花、もっとも微かな兆しをも見逃さない美意識、叙情を呼び出す仕掛けとして洗練されてきたものの系譜にも彼は連なろうとする。(注8)  
しかし、神道や仏教、儒学、国学が呼び込んだ世界は、実際にはひとつに収斂されるような単純なものではない。そのままで信じられていたとは思われない古代の神々も、神道を通じて、さまざまなかたちをとって再生し、失われたと思われていた縄文時代の記憶さえ、実は、神話や民間伝承、生活の場を通じて馴染みの世界だった。それが、全ての制度や価値基準が変わる第二次大戦後に表面に表れ、多くの場所で、西洋仕込みの歴史主義を足場に、再編されていった。勅使河原蒼風は、いけばなの世界でその再編成を体現する存在となったのである。彼の特異性は、それを観念としてではなく、実作者の実践的な問題として受けとめたところにある。先に引用した教本の内容を見ても、明瞭に読みとれるのは、草木という、ものに即して考えていく一貫した態度である。彼は『古今』以来の、「ものとことの出合う場」から、もっと大きなパースペクティブのもとに、いけばなを移し変えた。理屈ではなく場所を移すことでパラダイムは変換したのである。
第二次大戦後の、いろいろな経験を重ねていく準備期間があった後に、蒼風は、今度は、彼にとって外部であった欧米と直接出会い、その文化衝突の中で、外に向かって彼のいけばなの説得力を示す機会を得たのだった。目配せの通じない異文化の脈絡に突然入り込んで、異国趣味とサロン的教養主義の枠内にいる観客に向かって、彼の本気がどこまで通じるのか。彼の観客は、自然の受けとめも叙情の質も、まったく異なる文化的脈絡にある。相当の覚悟と戦略があっても成功は難しい。蒼風はここでもたいへん大胆だが、彼が戦後の状況に対して行ったのとまったく同じ方法で臨んでいる。パースペクティブの移し変え、自分の都合ではなく、その地でもたらされたものに、即興で彼のいけばなを適用し、文化を越えて伝わる可能性に賭けたのである。異質なものと出合ってぶつかり合う緊張感の中、新しい花材が取り込まれ、それが伝統花材の処理法の変更をも促す。公園や私邸からの、見たこともなかった花材の提供と使用、街頭での清掃ブラシによる書、蒼風のパフォーマンスは、まるでマジックのように観客を魅了した。表現の遠近法の拡大で、彼のいけばなはまた一つ生まれ変わり、彼の気迫は世界中の観客に伝えられた。勅使河原蒼風の海外での成功は彼の技と形が他の世界で伝達可能なものであることを示し、いけばなが「国際化」されるための方法を教えた。
いけばなの草木は、人の眼前にとどまって、即物的にもののまま作品化されている。個々の草木を見ていくと、ものごとの絶対的な孤独な姿と、にもかかわらずそれに響応しようとする自分に気づかされる。それは彼方にある自然に神を見るのではなく、人々が直接触れる自然の一つ一つが神であるという考えを誘う。草木に触れて感じるこだわりというようなものがそこにある。だから、その文化の「自然」類型の崩壊を伴うような、外の場でこそいけばなはより深く問われ、新しい意味を宿すのである。いけばなの形や意味、徴が背後に沈み、透明と思われた草木が表に現われるとき、草木の個別の記述が、そのままその制度を裏返す実践となる。そうした地と図柄の反転によって、綾なす意味のひしめきの手前に、出来事の地肌が瞬間現われる。いけばながそこで、何か質的に変わることがあるとすれば、それはもういけばなの問題にとどまることではない。さまざまな文化が、大きな枠組変換に置かれる。草木の出来事は、多様な解釈に対して開かれていく。いけばなをいけること、表現することの至福が感じられるような場面が確かにある。勅使河原蒼風はそうした数多くの舞台を真正面で受けとめながら、その創作活動を続けていくことができたのである。

4 蒼風以降のいけばな

勅使河原蒼風のいけばなは彼の手を離れ、一つの方法として草月門人や他流派にも拡がっていった。〈しん〉と〈下草〉という、古いいけばな構成法に対して、第二次大戦後の新しいいけばな構成の原理は、シュールレアリズムのコラージュやオブジェ、もう一つは、デザイン理論の応用である。前者は、いけばなに木の根や石、鉄、その他の異質材料を持ち込み、あるいは、見慣れた花材を見慣れないものに変える「異化」を行う。花器に花をいけるという手法を離れて、最後には、生きた草木をまったく用いないシュールレアリズムのオブジェのようないけばなにも発展した。それよりも、いけばな発表がホールやデパートなど大会場での展覧会を中心とするようになったという事情が大きいだろう。オブジェはシュールレアリズムのドグマである、「日常空間の異化作用」という理念の実現というよりは、木や根や石、鉄が、広い空間をうめる材料として格好であるという理由で、いけばなの新しい方法として受け入れられていったというのが、より実状に合っている。
後者のデザイン理論の方では、草木の枝・茎・花・葉などを、それ特有の線、色彩、ボリウム、質感という要素に抽象することで、それらが持っていた意味を離れて「素材」化する。すると、スペースデザインや彫刻的な構成の方法が、いけばなにも適用できるようになり、植物の意味や出生という自然観を一新した、草木の新しい側面が照らし出されるのである。
クレーが絵画の世界で、絵の具によって描かれる線や形、色彩を、「対象としての自然の似姿」から解放し、絵の具それ自身を見えるようにしたのと同様に、古典的な自然観や、いけばなの古典様式を離れて、草木にどんな角度から光を当てても、そこには見直された新しい自然が現われ、草木をめぐる記述はどのように鋳直すこともできる。こうしたいけばなは「造形いけばな」と呼ばれている。それは、勅使河原蒼風自身のみならず、勅使河原宏によるデザイン理論の紹介、門人達の研究会での実践などを通じて発展していった。
建築や絵画、彫刻などの世界から憑き物が取り払われ、快適な生活のための道具という実用的な役割配分が与えられていったことと、「近代芸術」という制度の成立は、表裏の関係にある。近代リアリズムは「芸術」を支えるイデオロギーとして働いてきた。それは、合理主義、科学、進歩、発展などと並ぶ、近代西洋世界が築き上げたシステム、都市文化の中心的な道具立てである。第二次大戦後間もない頃の、雑誌『草月』に、こんな文章がある。

いけ花の形態が、たとえどのように変化しようとも、その本来の性格は空間感覚の形式的な構成に外ならない。それは如何なる材料を使おうと、構成原理を移動させようと、つまり新しい空間の秩序を追及することに帰する。その意味では本来彫刻の素性に通じるものが多かった。伝統的いけ花においては、枝や葉や木を使うことによって、線状的な構成が目立ったため、ややもすると絵画的効果の中に納まり勝ちだったが、この線状が前後左右に放射する方向感覚は造形的構成を立体的に要求するもので、絵画的効果に統一される筈のものではない。しかし長い間に、いけ花   の技法はいよいよ様式化されるに及んで絵画的な平面性に傾いていったようである。元来いけ花の視点は、前面にあって、集中的な統一を予定している。この前面性が長い間に絵画的平面に堕する危険を誘発して、行儀よくまとまり、平面的な構図におさまる傾向を示すに至って、折角の立体構成の本質を弱めてきた。そうした様式化に反抗して、強力なデモンストレーションを敢行した草月流の革新は、狭隘な様式化に対する挑戦で、従っていけ花の平面性に対する抗議であり、立体構成の解放 であったといえよう。(注9)(『いけ花と空虚空間』富永惣一『草月』19号)

いけばなの奥行きを、物理的な立体の問題としたり、草木を素材一般に解消して彫刻といけばなを簡単に同一視するなど、重森三玲とも共通する、西洋芸術論をそのまま敷衍しようとする議論だが、「自我の確立」、「自己主張」、「個性」、「独創性」、「歴史的進歩」、「発展」などという、今も流通する一見わかりやすい批評軸とともに、こうした主張が、いけばなに与えた影響は計り知れない。いけばなの奥行きは、絵画のような平面上に現れるわけではない。構成されたいけばなには、物理的な意味とは異なる独自の空間がある。いけばなが、鑑賞者に、正面に回ることを促したとしても、それはいけばなの弱点とは昔は見なされていなかった。それによって鑑賞者はいけばな空間に導かれる。それはたとえば、演劇空間が観客席という固定した方向に開かれているのと同じである。しかし、いけばなが彫刻や立体造形という、現代芸術のパラダイムで語られるや、いけばなは急速に現代芸術に近づくことになったのである。
勅使河原蒼風と草月流の「戦後・造形いけばな」は、他流派を取り込んで一九六〇年代には未曾有のいけばなブームをもたらし、いけばなの新様式として定着した。しかし、その一方で第一章にも書いたことだが、「現代」を冠した芸術運動は一九七〇年頃を境にして、社会的な影響力を失い挫折していった。古典いけばなの世界は「何気なさの典型」として意味づけられ、作為は不自然さとして排除される。近代の「自由花」は、いけばなの「芸術性」を問題にしたが、それも「自我意識」の「自ずから成る」自然への同化へと導かれていった。第二次大戦後の勅使河原蒼風のいけばなにも、西洋芸術とは異質な自然観がある。敗戦後の新様式「造形いけばな」は、デザイン的な草木の処理で「自然」の枠を広げたものの、それはより包摂力のある「自然」に再び引き寄せられていった。どんないけばなも「自然調」、「造形調」という型の幅におさまるのである。たしかにそこでは「個性」、「自己主張」、「独創性」などの言葉が交わされるが、その意味は、西洋近代の「自我と自然との対立」の構図とは遠く、それぞれの持ち味ほどの意味に過ぎない。
戦後の新しいいけばなと古典流派との対立、相互浸透から、古典花の見直しという別の波紋も生まれた。池坊では「正風体格花」の批判と「立華」の池坊専好、「生花」の池坊専定の見直し、いわゆる「新風」の運動が起こる。花材の動きで枝配りを決めていく「現代立華」「現代生花」である。これは洋花などの新花材もいけられる、現代風の「立華・生花」として生れたが、成立期の「立華・生花」の再生という要素も強い。そして戦後の新潮流からも、「戦後・造形いけばな」のマンネリ化の批判と再布置、「投入」「格花」の再評価が行なわれた。こうした傾向は、経済再建と高度成長期の保守化と結びつけられるが、むしろ、戦後日本の枠組の確定と掲げられた理想の射程が見えてきたことを踏まえた、いけばな再編成に対する反駁という問題をも含んでいた。しかし、「いけばな」を対象化して、その場そのものを問う姿勢が無ければ、制度の枠組に収まっていくのは当然の流れだろう。こうして、第二次大戦後生まれた新しいいけばなは、〈古典花〉・〈自然調〉・〈造形花〉・〈前衛〉などというジャンルとして、制度的な再編成を終了したのである。
一九七〇年頃から、「保守化した戦後いけばな」に変わって、再び欧米現代芸術の紹介、吸収によって、新しいいけばな運動が始まる。これは、勅使河原蒼風と草月流の隆盛に押されて、影を潜めていた戦前からあった流れ、中山文甫や重森三玲ら主唱の、現代芸術派の衣鉢を継ぐものだ。古くは「白東社」の中川幸夫、石川県の「いけばな新進会」「グループ亜土」「八人の会」などの作品発表と『いけばな批評』(一九七三年創刊)の活動は、草月が主導した「戦後いけばな」に変わる、新しいいけばなの方向性と理念を示そうとした。そこには、それまでのいけばな観とは異なる「いけばな」があった。
「現代いけばな」の特徴は、この活動が、いけばなよりも欧米の現代芸術の動向に、よりつながっていることにある。それらは最初、重森三玲ら美術批評家のいけばな=立体造形芸術=彫刻といった一般論を出ず、現代彫刻の模倣・追随に過ぎなかった。しかし、勅使河原蒼風と草月流のいけばなが、オブジェと言いながら、植物以外への花材の拡大、デザイン理論・演習のいけばなへの応用といった方向で、様式的まとめの段階に入り、その一方、古典花の見直しがブームとなるような情勢の中で、自然と世界の見直しをはかろうとする、現代芸術の最前線とつながった。現代芸術の動きをうかがう思惑を込めて、いけばな界の一部が活気づいたのは、植物が西洋的な芸術観とはなじみにくい「素材」であったことだ。草木を彫刻の独自の「素材」として捉えると、それはすでに古典彫刻の素材観からはみ出すオブジェなのだ。現代芸術派は「日常世界」が事物を見過ごす理由を、人々が実用的な「意味」に縛られているせいだと考える。すると、芸術家の戦略として、ものごとをその機能する枠組から外して「日常的な意味」を無化し、日常とはかけ離れた脈絡の上に置く「異化」などの手法が生れる。「現代いけばな」派は、いけばなを、「固定化された世界」から草木の意味を「ずらす」ための「装置」として、「造形芸術」的に意味づけようとした。しかし、ここでの脈絡の混乱はどうしようもないものだ。彫刻にとっての「植物」と、いけばなにとっての「植物」ではまるで意味が違っている。それにもまして、制度としての「芸術」も「いけばな」も問わないまま、ものをオブジェとして美術会場に持ち込めば、観客の常識が、それを「芸術」として受け入れるだろうとする期待が、そこには働いている。試みの多くは、どんなに大胆なものに見えても、現代のさまざまな意匠の枠組の中に納まる技巧に過ぎなかった。それは表現する作家の意志があらわであればあるだけそうだ。作家の目指す表現の意図が作品を生みだすという考え方自体が、近代以降に生れた、自我の神話に基づいている。

5 蒼風いけばなの核心

最近、勅使河原蒼風展を開催した世田谷美術館が、「語りのしかけ 展示の空間と手法」という企画の展示会を行った。朝日新聞01年11月26日朝刊を引用しよう。

展示ケースを展示するケース相次ぐ。こんな「だじゃれ」みたいな出来事が、美術展で起こっている。例えば、東京都世田谷区砧公園の世田谷美術館の収蔵品展「語りのしかけ 展示の   空間と手法」(28日まで)では、白い壁の前にアクリル製の空の展示ケースが一つ。解説文が「持ち物を置いてみて下さい」と誘う。カメラを載せると、急に立派になっ   たような。「芸術」に見えなくもない。企画した川口幸也・学芸員は「白い壁、ケース、スポットライトといった仕掛けがあれば、何でもアートに見える可能性がある」と語る。なぜ展示ケースか。川口さんは「西欧的な近代文化の再考が広くなされているが、美術館の展示は、目に最も効果的な近代の仕掛け。そこで見るものは絶対的か、と問う試み」と語る。ケースの展示は、美術館という仕組みの問い直しが進むことを示しているといえそうだ。(注10)(『「芸術」を生むのは展示ケース?』)

ようやく、このような「近代の仕掛け」が問われるようになったのは、それが衒学でなければたいへん良いことである。
自然の草木には人が意味づける以外の意味も役割もない。ずらす意味があるのは「いけばな」や「芸術」の名で生き延びてきた、「装置」の側である。芸術家達が考えるほど、世界は「日常」と「芸術」に対立しないし、その程度の手法で、制度化された世界の枠組に変化が起こるわけもない。この世界には、「常識的な日常生活」と「芸術的世界」があるのではなく、生起する出来事をステレオタイプで包み込む制度と、出来事を読みかえしていく人間がいるだけである。人々にもっとも自然に見える秩序も、ものごとの不安定さ、揺らぎを静めることはできない。このとき本当に変更を迫られるのは、ものごとを支える枠組としての制度の側だろう。
消費され、擦り切れたものごとを、「異化」で蘇らせる現代の芸術家には、一見常套的な日常世界に対立し、世界の流動化をもたらすように見える行為も、「近代芸術」の総体を対象化できないそれは、けっきょく予定調和に終る。規範化された世界を、再活性化させる役割が割りふられるのが落ちなのだ。制度的に保証された場所で、それに乗っていけばなをいけることが、決まり切った意味に縛られることなのであって、扱う花材の意味を無化しようが、異化しようが、いけばなという規範そのものをゆさぶることはない。
近代は、人々が今生きる場所を「伝統文化」として相対化させ、出来事や自然に対する新しい感受性を植え付けた。それは、世界中の現代都市間で、およその文脈や語彙、豊富な情報を共有するモダンという国際文化モザイクの一端を作っている。モダンは、そうした国際都市間の共通文化として、すでに百年の蓄積の中で、緩くはあってもある種の共通文化を形成しつつある。それは、資本主義社会が生み出した、情報化した大衆の文化であり、神なき時代の見せかけとして、「本物」を求めるキッチュ文化である。そこでは芸術は、環境に奉仕する道具としての機能が与えられている。いけばなは、現代都市の大衆文化に組み込まれて、インテリア、エクステリアとして消費されるようになった。それが目指す永遠の神は「芸術」である。そこで語られる言葉も流行も、モダンの枠組を逸脱せず、独創性の名のもとに現れる珍奇な形は、一見新しくても、およそいくつかのパターンに還元されてしまう。逆に、いくつかのパターンがあればこそ、「個性的」などともいえるので、モダンの枠組に納まる範囲で、作家の数だけ「個性」は多様化するから、その盛況さの中に入ると、人々は十分自由に、「創作」しているような気分になれるのである。
啓蒙家達の錯覚で、人々は、新しい理念が芸術を変えるのだと思い込んできた。しかし、理念は世界を上滑りして、その制度の枠組に届くことはなかった。芸術思想による啓蒙ではなく、新しい環境・出来事や他の文化との衝突が、いけばなに流動と変換をもたらすのである。山根翠堂はいけばなを、「芸術」という理念で説明しようとして、かえっていけばなの既存の枠組を強化した。彼のいけばなは、理念ではなく、写真という新しい媒体によって変化したのだ。小原雲心がその「盛花」で考えていたことは、伝統的な「中国」趣味の範囲内だったが、洋花を自由に用いる道を開いたことで、いけばなはどんどん変わっていく。いけばなを「造形・彫刻」と言いかえても、いけばなの枠組は何も変化しない。いけばなが流動化するのは、芸術家が意図的にそれをずらすことによってではなく、その枠組とは異なる場所が突然見出されたときである。そのとき、それまで信じられていた土俵が不確かなものに変わり、新しい足場で、ものは再編成される。ものが生れるのは作家の意志である以上に、ある文化の脈絡上の出来事で、独創的な工夫による創作ではないし、内面の個性や自我の表出でもない。たとえ一人が作りだしたもののように見えても、作家の意志とは別のものによって導かれる、当事者にもわからない見えない営為、文化が織り成す綾である。
勅使河原蒼風は江戸期文人的な教育を受け、その青春時代に、大正・昭和初期の都市文化と遭遇した。円熟期と思われた五十代は、第二次大戦後の変革と占領軍将校夫人達の指導、さらには海外でのいけばな披露・デモンストレーションという、まさに新しい環境・出来事や他の文化との出合いを繰り返し体験した。こうした自己検証の場を、実践的に真正面で受けとめ、更新もためらわないで立ち上げていく姿勢が、彼のいけばなの大胆で斬新な力強さを生み、表現の核心に届いた秘密であろう。この度量・消化力こそ彼の最大の才能というべきではなかろうか。

注及び参考文献

1-勅使河原蒼風『新しい生花の上達法』主婦の友社、一九三三年
2-勅使河原純『花のピカソと呼ばれ』フィルムアート社、一九九九年
3-ぬきの厚みほどの隙間をあけて、異なる〈しん〉を二本立てて、左右にまったく違う景観を作り出す立華の技法をいう。
4-『人物・昭和のいけばな史』『いけばな批評』21号、王立出版社、一九七五年
工藤昌伸『勅使河原蒼風「手」』『いけばな批評』第13号、王立出版社、一九七四年
5-『二つの仕事』『草月』17号、草月出版、一九五四年
6-『草月流生花』独習シリーズ昭和34年版 主婦の友社、『草月の花』婦人画報社
昭和37年などによる。
7-『蒼風芸術の秘密』『いけばな批評』第15号、王立出版社、一九七四年
8-第三章(注)三 中西進『古代人の自然観』『日本人の自然観』河出書房新社所収
9-富永惣一『いけ花と空虚空間』『草月』19号、一九五四年
10-『「芸術」を生むのは展示ケース?』朝日新聞二〇〇一年11月26日朝刊

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